「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」 ルカによる福音書20章44節

 20章はすべて、マルコに基づいて記述されています。この箇所には、ユダヤの指導者たちとの問答や彼らに当てつけたたとえ話など、主イエスと指導者たちとがいかに対立していたかということを示す記事が集められています。それは、19章47節に「祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが」とあって、どのように謀っていたのか、説明するかたちになっているわけです。 

  最初は、祭司長、律法学者たちによる「権威についての問答」(1~8節)、次いで、彼らの回し者による「皇帝への税金」への対応(20~26節)、そして、サドカイ派の人々による「復活についての問答」(27~40節)と続き、その後、主イエスが彼らに、「ダビデの子」についての質問をされました。

 41節に「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は、「メシアはダビデの子だ」と言うのか』」と記されています。「ダビデの子」というのは、ダビデの子孫、ダビデの家系という表現と考えればよいでしょうし、また、「ダビデのような」能力、性質を帯びた、特に政治的、軍事的な能力を期待する表現でもあります。
 
 人々が、「メシアはダビデの子だ」と考えたというのは、たとえば、サムエル記下7章5節以下に記されている主なる神の言葉の中に、「あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(同12節)とあります。

 また、詩篇132編11,12節に、「あなたのもうけた子らの中から王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約とわたしが教える定めを守るなら、彼らの子らも、永遠にあなたの王座につく者となる」と詠われています。

 このような御言葉に基づいて、ユダヤの人々は、ダビデの子孫の中からメシアが誕生することを待望して来ました。ダビデという人物は、イスラエルを400年間治めたダビデ王朝の創始者です。この王朝が倒され、列強諸国によるパレスティナ支配が続いている中で、独立と自由を勝ち取るメシアの到来を強く望んでいたのです。

 エルサレムに入城される主イエスに向かって、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マタイ21章9節)と歓呼の声を上げたということは、主イエスをダビデの子、メシアであると人々が考えている、そう宣言しているということですね。
 
 主イエスは、御自身のことを「神からのメシアである」(9章20節)とペトロが語ったとき、その言葉を喜ばれました。また、エリコのそばで盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(18章38節)と呼び求めたとき、その声に応えておられます。
 
 ですから、ここで主イエスに向かって「ダビデの子」、「メシア」と呼ぶのは、決して間違っているとは考えられません。ですが、主イエスの方から、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問いかけられて、そのことが問題になっているわけです。

 主イエスはここでご自分が「ダビデの子」と呼ばれることを反対なさっているというわけではありません。「メシアがダビデの子だ」と言われることを全面的に否定されているのでもないでしょう。
 
 問題になさっているのは、「メシアはダビデの子だ」という言葉の意味、その内容です。少なくとも、ダビデの子孫からメシアが生まれるということは、聖書が新旧約問わず告げていることであり、先に記したとおり、主イエス御自身が否定されず、受け入れておられるところです。

 主イエスが問題にしているのは、「メシアはダビデのような、政治的、軍事的指導者だ。ダビデは、私たちの国で最も偉大な王、指導者であった。理想的な国家を築いてくれた。だから、ダビデの子孫として登場して来るメシアは、必ずローマの支配を排除し、理想的な国を建て上げ、民族の誇りを取り戻してくれるはずだ」という人々の考え方、期待の仕方です。

 当時、メシアと呼ばれる人が何人も現れました。有名なのは、バル・コクバという人物です。紀元130年に第3次ユダヤ・ローマ戦争が起こりました。当時、ユダヤ教最大の指導者で律法学者のラビ・アキバという人物が、バル・コクバを指して、彼こそ真のメシアだと、民に紹介しました。

 バル・コクバはダビデ家の出身でも何でもありませんでしたが、彼は、イスラエルの尊厳を回復するため、ローマに対して反乱を起こしたのです。この人物こそメシアだと、ラビ・アキバは考えたわけです。そして彼を支援しました。結果はどうなったかというと、反乱は鎮圧され、バル・コクバも彼を支援したラビ・アキバも、同じように処刑されました。

 この事件をとおして、イスラエルの民にとって、「ダビデの子」という尊称、「メシア」という称号がどういう意味を持っているものであるかということが、よく分かります。そのような期待、そのような考え方に対して主イエスは、聖書の言葉をとって問われるのです。

 42節に「ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主はわたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と』」とあります。これは、詩篇110編1節(「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」)を引用されたものです。

 この言葉で、ダビデはメシアのことを「わが主」と呼び、神を「主」と呼んでいます。つまり、ダビデの主メシアに対して主なる神が、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」とお告げになっているというのです。

 そうして、冒頭の言葉(44節)のとおり、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」と、改めて問われます。

 ここで、「主」という字は、非常に興味深いものです。第一画は、炎、火を表しています。第2画以下「王」という形は、ランプ台をかたどっているのです。つまり、「主」という字は「ランプ」を表していると考えれば良いわけです。

 ランブが家の真ん中にあって家全体を照らしているところから、「主」は「中心」という意味を持ち、一家の中心人物として、「主人」という言葉が生まれて来るわけです。だから、主人、指導者と呼ばれる人は、家全体、組織全体を照らす明るい人でなければいけない。ネクラではいけないというところがあるわけです。

 扇谷正造という人の書いた『トップの条件』という書物には、その条件として、花がなければならないという項目がありました。人に喜びを与え、光を与える、そういう器でなければならない、その人が入ってくれば、暗雲漂う、皆の顔が曇る、それでは駄目なのです。器、度量が大きいということも、その大切な条件の一つですね。どんなものもどんと受け止め、安心を与え、勇気を与える器。そういう器になりたいものだと思います。
 
 主イエスこそ、この世に来てすべての人を照らすまことの光です(ヨハネ福音書1章9節)。そして、神はメシアに対して、「わたしの右の座に着きなさい」、と言われました。「あなたの敵をあなたの足台にする」ということは、すべてのものの上に君臨する主だということです。

 つまり、ダビデのようなイスラエルの支配者ではなくて、イスラエルのみならず、ローマもエジプトも、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるようになるということです(フィリピ2章10,11節)。そのように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、なぜメシアをダビデのような支配者として期待しているのかというわけですね。

 ところが、主イエスはダビデの子孫としてこの世にお生まれになりましたが、貧しい生涯を歩まれました(第二コリント8章9節、フィリピ2章6,7節)。王として崇められることもなく、むしろ、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ福音書20章28節)と言われたとおり、すべての者の僕として、その命を生かすために来られたのです。

 主イエス様にとって「メシア=キリスト」という称号は、自分を天よりも高く上げて人から誉めてもらおうというようなことではなくて、本当の救い主メシアは、自らを低くして人々にお仕えをする。下僕として、奴隷として人々に仕えるということだったわけです。そのことを多くの人々は理解出来ませんでした。

 今、私たちも、神の御子イエスを主と呼んで、その信仰を言い表しています。私たちのために最も低くなって私たちに仕えてくださったイエスを主と呼ぶということは、主イエスがその生き様を通して私たちに生きる道、命の道を示してくださった、私たちもそのように歩むと言っていることなのです。

 信仰により、神の御言葉を通して主イエスと出会い、私たちのために贖いの供え物となってくださったということの意味をしっかりと受け止めさせて頂きましょう。初めからおられ、神と共におられ、ご自身神であられる「言(ことば:ロゴス)」なる主イエスの力ある主の御言葉に耳を傾け、心を留めましょう。

 主よ、今日も御言葉に与ることができて感謝いたします。御言葉を通して主イエスを知ることが出来ることは、パウロが、それまで持っていた一切のものを無価値な、糞土のようにさえ思っているというほどに、価値のある豊かな恵みです。常に主イエスを仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、さらに主に近づかせて頂くことが出来ますように。聖霊が私たちのうちに住まわれ、私たちに御言葉の真理を悟らせてくださることを感謝します。祈りと御言葉により、さらに深く聖書と神の力を味わわせてください。 アーメン