「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。」 ルカによる福音書19章22節

 18章31節以下、三度目の受難予告からエルサレム入城直前の出来事が記されます。19章1節からマルコを離れ、1~10節はルカの独自資料、11~27節はマタイとの共通資料に基づいて語られています。

 そして、28節以下20章44節まで、マルコに基づくエルサレムでの主イエスの宣教が物語られます。そのうち、28~48節はエルサレム入城と、それに続いて行われた「宮清め」と言われる神殿から商人たちを追い出すパフォーマンスの記事になっています。

 今日は、11節以下、「『ムナ』のたとえ」という小見出しがつけられた段落を学びます。ムナは、ギリシアの銀貨の単位で、1ムナはローマのデナリオン銀貨100枚分、100デナリオンに相当します。1デナリオンは労務者一人一日の賃金と言われますから、1ムナ=100デナリオンは100日分、およそ4か月分の賃金ということになります。

 主イエスのエルサレムへの旅は、エルサレムの北東約27㎞、ヨルダン河畔のエリコに達しました(1,11節)。このたとえ話は、そこで語られました。「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」(11節)というのが、このたとえ話が語られた理由でした。

 そのたとえ話は、立派な家柄の人が王位を受けるために遠くに旅立つことになり(12節)、10人の僕に1ムナずつ渡して、「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」(13節)と言います。その後、彼は王位を受けて家に戻り、僕たちを呼んで清算させるという展開です(15節)。

 この話は、当時あった実際の出来事にヒントを得たものでしょう。ヘロデ大王の息子アルケラオが父の遺言に従って紀元4年にユダヤの君主になりましたが、その承認を受けるためにローマに赴きました。その時、ユダヤ人たちは、イドマヤ人であるヘロデ家の支配を排して、ローマの直轄地にしてくれるように嘆願しました(14節)。そのためか、アルケラオは王にはなれず領主の地位を与えられましたが、事実上それは王と同じ権力でした。

 しかしながら、アルケラオの圧政に対する度重なる苦情のゆえに、10年後、ローマ皇帝により、地位と領土を取り上げられ、追放されてしまいます。

 そのことについて、ここでは主イエスが、彼を嫌う宗教指導者たちによって十字架の刑に処せられるけれども、天に昇られ、父なる神の全権をもってこの世に再びおいでになり、排斥した者たちを裁かれる話として語られていると解釈できそうです。

 15節以下、金を預けた者たちを呼び集めて清算をするという段になると(15節)、最初の者は10ムナ儲けたと言い(16節)、二人目は5ムナ儲けたと言って(18節)、主人を喜ばせ、「十の町の支配権」(17節)、「五つの町の統治」(19節)という褒美、新たな使命が与えられました。

 すべての僕が主イエスから同等の責任をもって福音宣教の働きが委ねられたこと、しかしながら、すべての者に同じ業績、同じ収益が要求されてはいないことを示しています。それぞれ、自分の力に応じて、委ねられたものを用いて精一杯働くことが求められ、それに真実と完全な献身をもって応えた者たちを喜び評価されているのです。 

 ところが、三番目の者が、「これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました」(20節)と、預けられていた銀貨を差し出しました。彼がそうしたのは、主人が厳しい人だと知っていたので、失敗を恐れたのだというのです(21節)。それを聞いた主人は、彼らからそれを取り上げて、10ムナを持っている者に与えます(24節)。

 冒頭の言葉(22節)は、このたとえ話の鍵になる言葉です。ここに、「その言葉のゆえにお前を裁こう」(エク・トゥー・ストマトス・スー・クリノー・セ:out of your mouth I judge you)と言われています。

 一つは、文字通りの言葉遣いで裁かれるということが考えられます。同じ事態を表現するのに、「1ムナしかない」というのと、「1ムナもある」というのでは、ずいぶん違った印象になり、そこから生まれる行動も、全く違ったものになるでしょう。積極的な言葉を使えば、積極的な行動が生まれ、そしてよい評価を受けることが出来る。一方、消極的な言葉を使えば、行動も消極的になり、よい評価を受けることが出来ないということになります。

 また、その言葉遣いを聞けば、その人の思いが分かるというものです。主人が厳しい人だと知っていたので、恐ろしかったという僕は、「商売をしなさい」という言葉を無視してしまいました。彼は主人の命令に従うことよりも、それによって蒙るかもしれない処罰のほうが気になったのです。

 彼は、主人の意図を誤解しました。主人が僕たちを信頼してその管理を委ねた1ムナというお金を、主人の処罰が恐ろしいという理由で使わなかったのです。あるいは、主人は初めから自分たちを懲らしめるために、こんな無理難題を押しつけていると、その僕は考えていたのかもしれません。

 一方、商売で利益を上げた二人の僕は、主人についてどう考えていたのでしょうか。そのことは何も記されてはいませんが、このたとえ話は、徴税人ザアカイの物語に続けて語られていることから(7,11節)、ザアカイが、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)と主イエスに向かって語ったことを受けていると考えられます。

 そのようにすれば貧しくなってしまうでしょう。財産を全部失ってしまうかもしれません。けれども、彼は、主イエスを自宅に迎えて救いに与ったのです。財産を使い果たして救われたのではなく、救いに与ったとき、彼は財産よりも大切なものを知ったのです。そして、そのように財産を使うことが主に喜ばれること、主に従うアブラハムの子としての使命であると考えることができたわけです(16章9節、18章22節参照)。

 徴税人ザアカイは、その言葉によって、彼が主イエスを信頼する者であること、主に従うことを喜びとするものであることを示し、そして、主イエスは彼の言葉によって、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と喜びの言葉、祝福の言葉を語られたのです(9節)。

 主を信じる者として、その言葉に従って歩むことを喜びとし、肯定的、積極的にその思いを言い表しましょう。その最適な表現が賛美でしょう。「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう。善い行いと施しを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ書13章15,16節)と言われるとおりです。 

 主よ、今日の御言葉を通して、どのような境遇にあっても主を信頼し、その御言葉に従うことが出来るかどうかが問われていると示されました。私たちはすぐに不平や愚痴を口にします。どうか憐れんでください。助けてください。信仰の心を授け、導いてください。そうして、主イエスの再臨の日まで、委ねられた賜物を用いて主に委ねられた業に励むことが出来ますように。 アーメン