「主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」 ルカによる福音書17章6節

 1節以下の段落には、主イエスと弟子たちとの会話が記されています。そのテーマは、罪と信仰というものでしょう。聖書が語っている「罪」とは、刑法に触れる犯罪とイコールではありません。勿論、犯罪も罪です。しかし、自分は犯罪を犯したことがないといって、それで罪人でないわけではありません。聖書がいう罪とは、関係を壊し、背くことを言います。

 詩編14編1節に、「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」という言葉があります。「神などない」と心で考えただけで、その人は腐敗している、善を行っていないというわけです。

 1節に、「つまずきは避けられない」とありますが、これは、誰もが罪を犯す、犯さない者はいないということです。私たちが誰かに腹を立て、悪口を言うとき、自分も同じ罪人だと考えてはいないでしょう。悪口を言う私自身はその時、正しい人です。自分のことは正しい人だと考えています。だから、間違ったことをする者に腹を立て、馬鹿だ、愚かだというのです。

 けれども、本当にあなたは正しい人か、賢い人かと突っ込まれると、答えに窮します。人を非難しているとき、自分自身のことは棚に上げているだけだからです。

 勿論、罪を犯すことは非難されるべきことです。罪を無視することをよしとはしません。だからといって、私たちに罪を裁く権限はありません。神が私たちに求めておられるのは、罪の裁きではなく、罪の悔い改め、方向転換です。関係を損ねる行為、その行為を産み出す考えを変えることです。3節に、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と記されているとおりです。
 
 人に忠告を与えるというのは、なかなか難しいですね。一所懸命に言葉を選び、相手のことを考えて話しても、かえって逆恨みされることもあります。そうなるくらいなら黙っておこうと思ってしまいます。けれども、それでは相手との関係を真に良くすることは出来ません。

 難しいといえば、罪を赦すことほど難しいことはないのかも知れません。3節に、「悔い改めれば、赦してやりなさい」とあり、続く4節で、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と命じられています。

 確かに、本当に悔い改めて来れば、赦してやれるかも知れません。けれども、一日に七回罪を犯し、七回、「悔い改めます」と言って来るというと、それは、本当に悔い改めていることにはならないだろう、本当は悔い改める気などないんじゃないか、それなら、到底赦してやることなど出来ないと思ってしまいます。

 イエス様は、そのような私たちのことをよくよくご存じです。つまり、赦してやりなさいという主イエスの御命令を、私たちはなかなか守れないのです。一日に何度、主イエスの御命令に背くことでしょうか。そして何度、「悔い改めます」と赦しを請うでしょうか。否、「悔い改めます」と言わないことも多々あります。もし神が、それなら赦してやることなど出来ないと言われれば、どうしましょう。

 弟子たちは、そのような赦しの信仰に生きるためには、強い信仰、大きな信仰が必要だと考えたのでしょう。5節に、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言った」と記されています。信仰の巨人になれば、そして、心に神の愛が充満していれば、他者の罪を戒め、あるいは赦してやることが出来るようになると思っていたわけです。

 それに対して主イエスは、冒頭の言葉(6節)のとおり、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われました。「からし種一粒ほどの信仰」とは、これ以上小さくは出来ないという最小の信仰といった表現です。つまり、信仰の量、大きさは問題ではなく、信仰があるかないかが問われるということです。

 あらためて言うまでもないことですが、桑の木が動き出して海の中に根を下ろすことなど、あり得ないことです。誰が桑の木にそのように命じることが出来るでしょうか。特別な能力を授けられた人ならば、あるいは出来るかも知れないけれども、私のような凡人には、到底不可能という話でしょう。

 桑の木が言うことを聞くとすれば、それは、神が命じられるときです。主イエスはここで、信仰とは、全知全能の神を信頼することであると教えておられるのではないでしょうか。人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。18章27節に、「人間にはできないことも、神にはできる」と記されています。

 私たちは、不可能を可能とし、死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させるお方を神と呼び、信頼しているのです(ローマ書4章17節)。

 神は、私たちの罪を赦すため、独り子イエスをこの世に送り、贖いの供え物となさいました(第一ヨハネ4章10節)。それは、私たちが悔い改めたからではありません。私たちがまだ罪人であったとき、神に敵対していたときに、御子の死によって、和解の道を開かれたのです。神様が罪人の私たちと和解することを望まれ、その道を切り開いてくださいました。全くもってあり得ないことを、神が自ら行ってくださったのです。
 
 神は、動くはずのない桑の木に命じて、抜け出して海の中に根を下ろすという奇跡を行うことが出来ます。桑の木が神の言葉に聴き従うのです。そうであれば、私たち主イエスを信じる者が「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」(3節)と言われる主イエスの御言葉に聴き従うのは当然です。

 桑の木が自分で動けたのではありません。神の御言葉が桑の木を動かしたのです。神は私たちに、兄弟の罪を赦せるような寛大さ、包容力を求めておられるのではありません。神の御言葉に聴き従うことを求めておられるのです。

 だから10節で、「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と言われているのです。

 私たちが神の御言葉に聴き従うのは、私たちが立派だからではありませんし、そうすれば褒めてもらえるということでもありません。それは、神の僕として、しなければならないことをするだけのことなのです。つまり、御言葉に従おうとして、出来ないことはないのです。

 かくて、「からし種一粒ほどの信仰があれば」というのは、私たちが主を信じ、御言葉に従うのが、信仰の第一歩だということです。そして、私たちが主イエスの御言葉に耳を傾け、導きに従ってそれを実行していくならば、私たちの信仰は大きく成長することになるのです。主は、少事に忠実な者に、より多くのものを委ねられるお方だからです(マタイ25章21節など)。

 そして、主が開いてくださる恵みの世界、赦しの道、和解の道、平和の道を歩むことがどんなに豊かなものであるかということを、主の御言葉に従って歩む者は、味わうことが出来ると教えてくださっているのです。

 それでも、主の御前に悔い改めようとせず、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」という御言葉に従うことが出来ないならば、それを不信仰というのです。信じない者にならないで、信じる者になりましょう。人間には出来ないことも、神には出来るのです。

 永遠の御国へと到る主の道、真理の道、命の道を、主の御言葉に聴き従いながら、歩ませて頂きましょう。御言葉に従う者に与えられる恵みは無限大なのです。

 主よ、信仰の醍醐味を味わうために日々主の御言葉を正しく聴き、その導きに素直に従うことが出来ますように。「御言葉ですからやってみましょう」と語らせて頂きながら、主が私たちに与えられた救いの恵み、永遠の御国の喜びを真に味わい知る者となることが出来ますように。まことに主を畏れ、謙って、霊と真実をもって主を礼拝する者とならせてください。主の恵みが私たちの上に常に豊かでありますように。 アーメン