「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 ルカによる福音書16章26節

 16章には、富の所有、管理に関するたとえ話が、「律法と神の国」というマタイとの共通資料に基づく記事を挟んで二つ(「不正な管理人」のたとえ:1~13節、「金持ちとラザロ」:19~31節)、物語られています。

 その中で、16~18節は、「律法と預言者」即ち旧約聖書のこと、また、離縁についての文言が取り上げられていて、前後の文脈にそぐわないように見えます。ただ、申命記24章には、離縁についての規定と、経済的な問題を含む人道的な規定が並べられており、そこで、律法なる神の教えをどう読むかが問われているのです。

 その点から、14,15節は19節以下のたとえ話の前半(19~26節)の導入、16~18節は、たとえ話の後半(27~31節)の導入として語られているものと考えられます。

 今回は、主イエスが語られた「金持ちとラザロ」(19~31節)というたとえ話について考えたいと思います。このたとえ話の特徴は、主イエスが語られたたとえ話の中で、唯一、固有名詞が登場することです。即ち、ラザロとアブラハムです。他だし、金持ちと言われる人物の名は記されていません。金持ちは贅沢に遊び暮らし(19節)、ラザロは金持ちの家の門前に横たわり、食卓の残り物で腹を満たしたいと思っていました(21節)。

 ある写本では、満たそうと思ったけれども、「何も与えてくれなかった」となっているものがあり、ヴルガタ訳と呼ばれるラテン語聖書はそれを採用しています。そうすると、金持ちはラザロに対して全く無慈悲だったということになります。けれども、日本語の聖書はそれを採用しませんでした。別のことを考えるようにと示されているように思います。

 やがて、ラザロは亡くなって、天使たちによりアブラハムのもとへ連れて行かれました。また、金持ちも死んで葬られました(22節)。そして、金持ちは陰府でさいなまれており、ラザロは宴席でアブラハムの傍らにいます(23節)。

 金持ちはアブラハムに大声で、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」(24節)と呼びかけました。ここで、ラザロも金持ちもユダヤ人として物語られているようです。というのは、金持ちが「父アブラハム」と呼びかけていますし、ラザロは、アブラハムの傍らにいるからです。

 金持ちは、憐れみのしるしとして、ラザロを遣わして、指先を水に浸し、その水で自分の舌を冷やさせてくださいと願いました(24節)。生前、門前に横たわっていたラザロは全身できもので覆われ、それを犬がなめるという悲惨な有様でした(21節)。金持ちは、ラザロの手が触れたものを、どれほど汚らわしく思っていたことでしょう。しかし今、陰府の炎の中で苦しめられて、ラザロの指先の水で舌を冷やしたいと願うのです。

 その願いに対してアブラハムは、「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(25節)と言いました。

 即ち、生前と現在とで、ラザロと金持ちの立場が全く入れ替わったというわけです。さらに、冒頭の言葉(26節)が語られます。願いをかなえてやりたくても、陰府、即ち地獄と、アブラハムのいる宴席、即ち天国との間には、大きな淵が横たわっていて、渡って行くことができないというのです。

 単純に考えれば、天国と地獄を往来出来るはずがないということになりますが、「大きな淵」は、生前の金持ちとラザロの間に横たわっていた深い溝を示しています。最初に記したように、金持ちがラザロのために何もしてやらなかったということではないと思います。残り物を与えることもあったと思います。

 そうでなくても、水を恵むほどのことはしたでしょう。ラザロの指先の水をねだるとき、生前自分のしてやったことを思えば、その程度のことはしてもらえるのではないかという考えがあるように思われます。

 けれども、アブラハムからきっぱりと断られました。渡れない大きな淵にしたのは、あなたなのだ、そしてそのことを、まだ理解していないと言われているかのようです。どういうことでしょうか。

 それは、金持ちが生前、溝を渡ってラザロの傍らに座すこと、彼を理解し、友となろうとすることがなかったと言っているのです。彼に何を上げたか、どれだけ上げたかということが問われているのではなく、彼を憐れみ、彼を理解しようとしたかと問われているのです。その溝が天と陰府とを隔てる淵のようになってしまったわけです。

 そうなってなお、真に悔い改めることができないまま、ラザロを召使のように、その指先の水を届けるため、陰府にまで遣わして欲しいと願っているので、なおさら、金持ちとラザロの溝が深くなってしまいました。金持ちはラザロを、「アブラハムの子」、自分と共に神の祝福を受けるべき者と見ることができなかったのです。

 私たちの目も、この金持ちと同じです。自分の思いで周りの者を裁き、こんな人を神が祝福するはずがないと、勝手に決めてしまいます。そうです。自分と違う者を受け入れることが出来ません。優しくなれません。私たちは自分の行い、態度、心持ちで神の国に入ることが出来るような立派な者ではないのです。

 その意味では、神の目から見て、私たちは神の前に何ら功績を差し出すことの出来ない貧しく乏しい者ラザロなのです。どうすればよいでしょうか。赦していただくしかありません。憐れんでいただくしかありません。そして、主なる神は、豊かな恵みと愛によって私たちを深く憐れみ、赦してくださることでしょう。

 神の憐れみを受け、豊かな恵みに与って、隣人に対して互いに優しい者にならせていただきましょう。

 主よ、私たちを憐れんでください。その弱さ、愚かさ、罪を赦してください。信仰の目をもって主を仰ぎ、また隣人を見ることが出来ますように。理解することが出来ますように。自分のように隣人を愛する者とならせていただくために、私たちの心に、生活の中においでください。クリスマスの喜びと平和が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン