「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 ルカによる福音書13章3,5節

 13章は、1~17節がルカの独自資料、20節以下は、マタイとの共通資料に基づいて記述されています。18,19節はマルコ福音書に基づく記述です。

 1節以下に「悔い改めなければ滅びる」と小見出しのつけられた段落があります。これは、前段の「訴える人と仲直りする」(12章57~59節)に続けて語られています。仲直りすることが悔い改めるということと見ることができそうです。

 1節に、「何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」と記されています。いけにえは当時、エルサレムの神殿でしかささげることが出来なかったので、これは、エルサレムでの話です。ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたということは、エルサレムを巡礼していたガリラヤ人を総督ピラトが殺害したということです。

 これがどのような事件か、詳しいことは分りませんが、バークレーの注解書には、エルサレムの水事情が悪いので、ピラトが神殿に入るお金の一部を用いて水道を造ることにしたこと、事柄自体はよいことと受けとめられますが、しかし、神への献げ物を水道事業に流用することについて反対運動が起こり、それをピラトが兵士を使って制圧する際、多くのガリラヤ人の血が流される事態となったと記されています。

 なぜ、この事件の情報が主イエスにもたらされたのかということも明らかにされてはいませんが、この事件に対する主イエスの対応を巡って何らかの言質をとり、捕縛するきっかけにでもしようということだったのかも知れません。

 また、主イエスの弟子たちの中に「熱心党と呼ばれたシモン」がいます。熱心党というのは、神に対する熱心により、律法に背く者を排除することを目的に、ローマの圧政と暴虐に反抗して、自由と独立を獲得しようとする活動を展開していた人々です。主イエスの返答次第では、弟子の中にいる熱心党のメンバーが反乱を起こすことを期待したのかも知れません。
 
 4節の、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人」というのも、どのような事故だったのか明確ではありませんが、バークレーは、水道工事のときに誤って塔を倒してしまい、工事を請け負っていた人が災難にあったという解釈を示しています。

 主イエスは、もたらされた事件の情報に対し、そして、シロアムの塔の事故のことを語りながら、「ほかのどの人々よりも罪深い者だったと思うのか」(2,4節)と問われ、それに対して、冒頭の言葉(3,5節)のとおり、「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と仰っています。

 ということは、ファリサイ派の人々をはじめ、周囲の人々は、ピラトに殺されたガリラヤ人やシロアムの塔の下敷きになった者たちが、神に背いた結果、その罪の罰を受けたと考えていることになります。

 この問答の背景には、人々が災難にあったとき、それをその人が犯していた罪の罰と考える、因果応報的な考え方があります。ヨブ記で、ヨブの三人の友らがヨブを諫めるとき、ヨブの災難の原因が彼の罪にあるとして悔い改めを迫ったのは、まさにこの因果応報的な考え方に従っているのです。

 これは、ヨハネ福音書9章2節で主イエスの弟子たちが生まれつき目の見えない人を見て、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねた言葉にも示されています。

 主イエスはここでそれを否定されているわけではありません。しかし、災難にあった人と、それを罪のゆえと批判する人、いずれも神の前に悔い改めなければ、皆滅びると言われました。つまり、主イエスは、人を批判している人も罪と無縁ではないと仰っているのです。

 時代劇で、主人公が悪役に向かい、「天に代って悪を討つ。正義の刃、受けてみよ」などと語りますが、私たちが他者を罪に定めるとき、自分が神の座についているわけで、そのとき、神を見てはいないのです。悔い改めるとは、180度方向転換することです。神の方を向くことなのです。

 このことで、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい。人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(6章37,38節)と語られた主イエスの御言葉を思い出します。

 主イエスは私たちが、神の座について人を裁く者となるのではなく、主イエスの御言葉に従って憐れみ深い者となること、人を裁かず、罪に定めず、むしろその罪を赦す者となることを期待されているのです。

 主イエスはそれを、実を結ばないイチジクの木は切り倒してしまえという6節以下の譬えで語られました。ぶどうやイチジクは、神のお与えになる恵みの豊かさを示しています。パレスティナでは、ぶどうの枝を支えるために、イチジクを一緒に植えることがあったそうです。しかし、実を結ばないイチジクのために、ぶどうの生育が妨げられることにならないよう、実を結ばないようなイチジクは切り倒せということになるのです。

 土地の主人は、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と言います。何年待っても、実がなっていない。いつも期待はずれだ。もう待てない、無駄に土地をふさいでおくなというわけです。

 かくて、神の恵みを知っていながら、恵みを豊かに受けていながら、良い実を結ばないイチジクは、切り倒される運命にあります。そのことについて、私たちは今、実を結んでいますと、主の御前に胸を張ることが出来るでしょうか。そうありたいものですね。

 ところが、切り倒せという主人の言葉に対して、園丁は、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言います(8,9節)。

 主イエスは、イチジクが切り倒される運命にあることを承知しておられます。園丁として、イチジクが実を結んでいないことに胸を痛めておられたのではないでしょうか。だから、切り倒せという命令に、すぐに「はい、分りました」とは仰いません。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と仰って下さいました。

 それは、何とかして実を結ばせようという主イエスの思いであり、しかも、それが最終手段であることが示されます。「もしそれでもだめなら、切り倒してください」(9節)と言われているからです。

 してみると、この箇所は、主イエスの公生涯のお働きを示していると考えることも出来ます。主イエスは、3年余り、公の生涯を歩まれました。神の御国について教え、大いなる御業によって神のご愛を示されました。けれども、人々は主イエスを受け入れようとはしませんでした。良い実を結ぶことが出来なかったのです。かえってイエスを捕らえ、亡き者にしようとします。

 そこで、主イエスは最後の手段として、十字架の道に進まれます。私たちが実を結べるよう十字架の上で執り成し、切り倒されてしまわないように御自身が贖いの供え物となって下さいました。この十字架の贖いによって罪赦され、救いに与り、神の子とされ、実をつけられなかった者が良い実を結ぶことの出来る者へと造り替えられ、こうして、はっきりと神に立ち帰り、全き悔い改めに至る機会が与えられるのです。

 自分で自分を正しいとする道、それによって、他者を裁き、罪に定める道を離れ、主イエスの進まれる十字架への道、神の憐れみを受けて、その恵みに生かされ、他者を赦し、愛し合う道へ進みましょう。

 主よ、心静かに御言葉に耳を傾け、その導きに素直に従う私たちに、主の恵みと慈しみを豊かに注いでください。絶えず目を覚まして主なる神を仰ぎ、御言葉に耳を傾ける者とならせてください。導きに従って歩み、主の御心を行って、良い実を結ぶことが出来ますように。 アーメン