「そこでイエスは言われた。『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。』」 マルコによる福音書7章29節

 24節に、「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」と記されています。「ティルス」は、口語訳では「ツロ」と呼ばれていました。これは、シリアの国、フェニキア地方にある地中海沿岸の町です。ガリラヤの湖のほとりゲネサレトからおよそ60㎞、随分遠くまで足を伸ばされたものです。「だれにも知られたくないと思っておられた」(24節)と記されているように、主イエスは、ひっそりと過ごすために、ティルスまで来られたのです。
 
 そこに一人の女性がやって来ます。26節に、「女はギリシア人でシリア・フェニキヤの生まれであった」と紹介されています。この女性が主イエスを訪ねてやって来たのは、幼い娘に取りついた悪霊を追い出してくれるよう頼むためでした(25節)。主イエスの評判を聞き、苦しんでいる娘のために主イエスのもとを訪ね、願いを聞いてもらおうと思ったのでしょう。
 
 ところが、主イエスは自分の前でひれ伏している女性に、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と答えられます(27節)。ここで、「子供たち」とはユダヤ人のこと、「小犬」とは異邦人のことを指していると考えられます。

 あなたのような異邦人ではなく、神に選ばれたユダヤ人に十分食べさせなければならない。そのために自分はやって来たんだ。ティルスの町に来たのは、人目を避けて休むためであって、異邦人のために働くことは考えていないといって、主イエスは、この女性の要請をはねつけられたかたちです。

 しかし、それが主イエスの本心だとは思えません。「小犬」とは、家族に可愛がられているペットのことです。そこで、「まず」最初に「子供たち」と言われるユダヤ人に、それから「子犬」と呼ぶ異邦人にという、世界宣教の順序が示されます。

 しかしながら、女性はそれに満足しませんでした。順番が回ってくるのをゆっくり待つ余裕はそのとき、彼女にもその娘にもなかったわけです。彼女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言います(28節)。主イエスが「小犬」といわれた言葉を差別と考えて、悲しんでいるわけではありません。腹を立て、主イエスに食ってかかっているわけでもありません。

 主イエスの言葉を受け取り、そこからもう一度、主に自分の思いを伝えます。自分は、主人に「待て」と言われれば、そのとおりにするしかない「小犬」です。ご主人のものを取り上げて、「腹が減っているのだから、先に食べさせろ」と要求出来る立場のものでないことは、十分承知しています。

 その時女性は、主イエスが、「先ず子供たち、それから小犬」と仰ったのを聞きながら、食卓の下にいる小犬が、子どものこぼしたパン屑を食べるという情景を思い浮かべたのではないでしょうか。

 順番を待たなければ食べられないというのではなく、主イエスがユダヤの人々のために用意している恵みの働きそのものがとても豊かなので、待っていなくても食卓の下に一杯こぼれ落ちて来る。下に落ちているものなら、小犬が頂いてもよいだろう。食卓で子どもと一緒に食べたいとか、先に食べさせろというのではない。子どもが下にこぼしたその余りもので自分たちは十分だということです。

 なんとウイットに富んだ言葉でしょうか。驚くべき想像力です。それこそ、汚れた霊などではない、聖霊の導きと言わざるを得ないようなことでしょう。

 女性の言葉を聞かれた主イエスは、冒頭の言葉(29節)のとおり、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われました。ここで、「それほど言うなら、よろしい」という言葉をリビングバイブルは、「実に見上げたものです」と訳しています。

 原文を直訳すると、「この言葉に従って」という言葉遣いですが、岩波訳は、「そう言われては〔かなわない〕」と訳しています。この言葉遣いは、主イエスがこの女性の言葉に脱帽しているものだと解釈しているわけです。これは、主イエスがこの女性の信仰や謙遜さに心動かされた言葉でしょう。そのような信仰が、異邦の女性から示されるとは、思っても見なかったということかも知れません。

 このことで、主イエスが見たいと思っておられる信仰とはどのようなものなのかということが示されます。ユダヤ人は、確かに神に選ばれた民ですが、それは、彼らに選ばれる資格、値打ちがあったからではありません。取るに足りない、エジプトで奴隷として苦しめられていた民を神が憐れみ、御自分の民とされたのです(申命記7章6節以下)。

 そのことを、彼らは恩知らずにも忘れてしまっていたのでしょう。恵みをいただいて当たり前、自分たちには、神の恵みに与る資格がある、権利があると考えるようになっていたのです。

 ところが、神から遠くに離れていると思っていた異邦人女性が、驚くほど豊かな主の憐れみに信頼する姿を見せました。女性のその実に見上げた信仰の言葉を受けて、その信仰の言葉に従って、主イエスは、「わたしもあなたに言いましょう。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と仰ったわけです。即ち、もう既に彼女の願いは聞かれ、主の業がその娘の上になされているというのです。

 主の足もとにひれ伏し、謙遜の限りを尽くしつつその憐れみにすがる女性に、『実に見上げた信仰』を見て主イエスは喜ばれ、栄光の御業を見せてくださいました。私たちも、どんなマイナス状況もプラスに変えることのおできになる主の恵みの豊かさをたたえる信仰の告白、賛美の祈りをささげましょう。

 主よ、この異邦の女性は、困難な状況の中で、主イエスの御前にひれ伏しつつ、その恵み深さにひたすら信頼し、大胆に憐れみを求めました。 私たちもこの女性に倣い、恵みの源なる主の御顔を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。御心に従います。御名の栄光を現してください。主の恵みと聖霊の導きが豊かにありますように。 アーメン