「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」 マタイによる福音書28章19,20節

 28章には、主イエスの復活を巡る出来事が記されています。最初の段落(1~10節)は墓が空で、主の天使が主イエスの復活を告げたこと、すると主イエスが現れたことを語ります。次の段落(11~15節)では、番兵たちの報告を、イエスの遺体が弟子たちに盗まれたと言い広めるよう唆します。そして最後の段落(16~20節)は、弟子たちへの顕現の様子が記されています。

 マタイは、復活された主イエスの顕現の弟子たちへの顕現を、ガリラヤの山での出来事として記します(16節)。マルコはガリラヤでの顕現をほのめかすだけで終わり(マルコ16章7,8節)、ルカとヨハネは、エルサレムとその周辺でそれが起こったように伝えています。

 主イエスと出会った弟子たちは、そこで「ひれ伏し」ます(17節)。これは、「礼拝する」(プロスキュネオー)という言葉です。ところが、そこに「疑う者もいた」と言われます。復活の主とお会いすることは、疑いを赦さない類いのものではないということであり、礼拝する者は、主を信じる中で疑いの心を持つことがあるということを示しているようです。

 そういう弟子たちに対し、十字架の死という苦しみ、辱めを味わわれた主イエスが、天と地のすべての権威を授けられたお方として(18節)、彼らに使命を授けます。

 冒頭の言葉(19,20節)は、「大宣教命令」(Great Commission)と言われる、マタイの記す主イエスの遺言ともいうべきものです。これは、原文で見ると一つの文章です。主文は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マセーテウサテ・パンタ・タ・エスネー:make disciples of all the nations)で、「弟子にする(マセーテウオウ)」という動詞が命令形で記されています。

 そして、三つの現在分詞形の動詞があります。即ち、最初に「行く」(ポレウセンテス)という言葉、次は「バプテスマを授ける」(バプティゾンテス)という言葉、そして「教える」(ディダスコンテス)という言葉が、それぞれ現在分詞形で記されています。これらは、日本語聖書では命令形に訳されていますが、文法に即して訳せば、「行きながら」、「バプテスマを授けながら」、「教えながら」ということになります。

 つまり、すべての民を弟子にするというのは、①出て行くこと、②バプテスマを授けること、③教えることを通してなされるということです。ここで、「出て行く」とは、伝道するということでしょう。「バプテスマを授ける」とは、パンを裂くことと共に、礼拝の中心です。そして、「教える」とは文字通り、教育することです。

 そして、「弟子とする」という動詞は不定過去(アオリスト)時制ですから、これは過去に起こった一回的な出来事であることを示します。それに対して、三つの分詞は現在形ですから、これは継続的な働きかけということになります。つまり、弟子となるというのは生涯一度の出来事だけれども、そのためには、伝道と礼拝と教育は欠かすことが出来ない、これを継続しなければならないということになります。

 今日は特に、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉が迫って来ました。主イエスが、山上の説教を初め、この福音書を通して命じられたことはすべて守られなければならない、それを教えなさいと言われているわけです。

 「せよ」、「してはならない」と命じられていることは数々あります。主イエスが山上の説教を語られたとき、それを権威ある者としてお教えになったと記されていました(7章29節)。「権威ある者として」とは、それを実行、実現する力ある者としてということです。つまり、主イエスは、説教を語り、民をお教えになっただけではなく、自ら、それを実行、実現された方でした。

 であるならば、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と主が言われるとき、律法学者のようにではなく、権威ある者として、御言葉を実行するように教えなければなりません。そしてその権威は、自らそれを実行、実現するところに示されなければなりません。

 山上の説教の中に、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」とも言われています(5章19節)。

 しかしながら、いったい誰がこの務めをきちんと果たすことが出来るでしかょう。これを、自分の力でやり遂げよと言われるのであれば、みんなお手上げでしょう。それは、出来る相談ではありません。私たちが自分の力で神の御言葉を実行、実現できるはずがないからです。

 当然のことながら、主の助けが必要です。否、主がしてくださらなければ、私たちに何が出来るでしょう。だからこそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっているのです。主が共にいて、私たちを慰め、励まし、助けてくださいます。私たちが主にまったく信頼し、委ねて歩むとき、主が御力をもってそれを成し遂げてくださるのです。

 まさに、天と地の一切の権能を授かった(18節)権威あるお方として、私たちと共に行かれ、すべての者を礼拝へと導き、かつてガリラヤで弟子たちを教えられたように、今も私たちの守るべきことを教えてくださるでしょう。

 主よ、今日も命の言葉に与らせてくださり、感謝いたします。すべての民を弟子とするため、私たちを用いてください。誰よりもまず私たちが、主イエスの弟子にふさわしい者となりますように。御言葉と御霊によって絶えず取り扱ってください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン