「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」 マタイによる福音書26章12節
1節に、「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」とあります。「語り終える」は、「テレオウ(終わる、完了するの意)」のアオリスト(不定過去)形が用いられています。アオリストは、一回的な出来事が生じたことを示すものです。主イエスの御言葉を聞くべきときは、終わりを告げたのです。主イエスはそこで、「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」と言われました(2節)。
その日、ベタニアで重い皮膚病の人シモンの家に招かれました(6節)。彼は、主イエスに重い皮膚病を癒していただいたという人ではないでしょうか。重い皮膚病を患った人は、宗教的に「汚れた者」とされて、他者と交わりを持つことが許されませんでした(レビ記13章)。主イエスに癒しを願ってのことらならば、そう記されたはずでしょう。けれども、ここには、それをほのめかす言葉もありません。
癒されてなお、「重い皮膚病の人」という病名で紹介されるというところに、この病気を患った人に対する差別を見ることが出来ます。彼は、重い皮膚病を患ったことだけでなく、このような差別によって傷つけられ、苦しませられていたことでしょう。しかし、主イエスによって病気が癒され、喜んで一行を食事に招いたのです。
そこに、一人の女性が極めて高価な香油の入った壺を持って来て、主イエスの頭に注ぎかけました(7節)。それは、思いがけない出来事でしたが、それを見た弟子たちは、何という無駄遣いをするのかと憤慨します(8節)。マルコは、この香油が300デナリオン以上もする高価なものだと言います(マルコ福音書14章5節)。
確かに、一度に全部注ぎかけるというようなことをしなくても、数滴垂らすだけで十分よい薫りがしたと思います。残りを主イエスに差し上げて、お使いくださいということもできたでしょう。また、彼らが言うように、貧しい人に施すというのも(9節)、神に喜ばれるよいことでしょう。
しかし、主イエスご自身は彼女を咎めた弟子たちに、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(10節)と言い、女性の行為を「良いこと」と受け止められました。それは、「わたしを葬る準備をしてくれた」(12節)という、良いことだというのです。死者に香油を注ぐ行為は、ユダヤにおいて、良い業と考えられていたようです。
葬りと香油ということでは、主イエスが十字架から下ろされた後、急いで葬られたので、香油を塗ることができませんでした。そこで、安息日の翌日、女性たちが香油を持って墓に急ぎましたが、既に主は甦っておられ、やはり、香油を塗ることができませんました。そう考えると、この女性がここで香油を注いだのは、摂理的な葬りの準備だったのです。
この女性がどういうつもりでそれをしたか、ここには明言されておりません。しかしながら、少なくとも、主イエスの葬りの準備をしようなどと考えていたとは、到底思われません。女性がどういう素性かも記されませんが、病気を癒していただいたシモンの家族、彼の母親、もしくは姉妹と想像してもよいでしょう。
そう考えてみれば、それは、感謝のしるしということになります。それも心ばかり、ほんのちょっぴりというのではなくて、それこそ家の宝をすべてささげるというような感謝の表し方だったわけです。一度に全部注いだということで、それが計算づくではない、むしろそうせずにはおれないという行為だったと思われます。
良いことをしようと考えて行ったわけではないその行為を、主イエスが自分に対して良いことをしてくれたと評価されたのは、6章3,4節の施しの精神を、彼女がここで実行したからと見ることも出来ます。御言葉を実行することを、確かに主は喜んでくださるのです。
さらに、油を注ぐというのは、主イエスがメシア、油注がれた者であるという表現です。十字架につけられるというときに、そのお方こそ油注がれた王の王、主の主であるというのが、彼女の示した信仰の表明と見られたわけです。ですから、「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(13節)と評価されるのです。
それは即ち、この女性のしたことが、主イエスの死と復活を明言する最初の告知になったということです。女性の名も知らされず、その後、彼女がどのような運命をたどったのかも全く不明ですが、しかし、確かにこの女性のしたことは、マタイのほか、マルコ、ヨハネの福音書にも記されて、世界中で語り伝えられています。
主イエスは、私たちが自覚しないままでなした感謝の行為を、このように最大級の評価をもって喜んでくださるお方なのです。主に感謝のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず献げましょう。
主よ、私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を賜ったことでしょうか。そればかりか、私たちはいつも数えきれないほどの恵みに与らせていただいています。心から感謝します。そして、どんなときにも主への感謝を忘れない者とならせてください。心から唇の実、感謝と賛美のいけにえを献げます。主の御名があがめられますように。 アーメン
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