「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 マタイによる福音書23章39節

 23章には、先ず律法学者、ファリサイ派の人々を非難する言葉が語られます(1~36節)。このとき主イエスは、ファリサイ派の人々に向かって直接これを語っているわけではありません。聞き手は、「群衆と弟子たち」です(1節)。つまり、非難の言葉をもってイスラエルの民、その指導者たちを攻撃しているのではなく、守り行うべき教え、聞き従うべき指導者は誰かを提示しているのです。 

 それに続いて、「エルサレムのために嘆く」主イエスの言葉が記されています(37節以下)。この言葉を繰り返し読んでいると、この非難の言葉は、エルサレムの町に対するものというよりも、イスラエルの民全体のことを指していて、特にその指導者に対する非難であるということが伝わって来ます。

 21章1節以下のエルサレム入城の記事以前に、主イエスがエルサレムの町に来られたことを示す記事は、マタイにはありません。16章21節以来、まっすぐにエルサレムを目指して進んで来られました。そこに記されていたのは、エルサレムで祭司長、律法学者らによって多くの苦しみを受けて殺されるという受難予告でした。

 それまで、ガリラヤの地方において、権威をもって神の国の福音を語り(5~7章)、人々の病いを癒し、悪霊を追い出しておられました(8~9章)。そのような主イエスの善き業を伝え聞いていたので、エルサレムの人々は、「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」とほめ讃える言葉を叫びながら、主イエスの入城を出迎えたわけでしょう(21章9,15節)。

 けれども、彼らは主イエスがどなたであられるのか、正しく理解していたわけではありませんでした。ですから、何日もしないうちに、宗教指導者たちに扇動されて「十字架につけろ」と叫び出し(27章22節)、そして、主イエスが十字架につけられると、「今すぐ十字架から降りるがよい、そうすれば、信じてやろう」と嘲笑するのです(27章42節)。

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(37節)というのは、神がその民を守るという表現です。しかし、民は主イエスの招きを拒絶してしまいます。神の守りを拒否するのですから、その結果は、「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(38節)ということになるわけです。

 「お前たちの家」(ホ・オイコス・フモーン:the house of you) とは、「家」が冠詞つき単数形で語っているので、エルサレムの神殿を指すと考えられ、神を拒絶した廉で神に見捨てられ、その結果、荒れ廃れてしまうというのです。

 これは、エゼキエル書10章18,19節に、「主の栄光は神殿の敷居の上から出て、ケルビムの上にとどまった。ケルビムは翼を広げ、傍らの車輪と共に出て行くとき、わたしの目の前で地から上って行き、主の神殿の東の門の入り口で止まったイスラエルの神の栄光は高くその上にあった」と語られていた言葉を思い起こさせます。これは、主なる神の栄光が神殿から去り、バビロンのケバル川の河畔に飛んで行ったという言葉です。

 神の栄光が去った後、エルサレムは神の加護を失ってバビロン軍によって陥落、神殿は破壊され、町もろとも焼き捨てられてしまいました。しかしそれは、神が神殿を見捨てたからというより、イスラエルの民が神に背き続けたことのゆえに、彼らは既に主の民ではなかった、主の民としてのイスラエル全家は、もはや体をなしていなかったということになります。

 新約の時代、天の父が遣わした神の御子イエスを拒絶することで、再び、神殿の崩壊、国の滅亡を味わうことになると、ここに告げられているのです。確かに、この後、イスラエルはローマとの戦いに敗れ、神殿は壊され、国は滅びてしまいました。紀元70年のことです。

 冒頭の言葉(39節)で、「今から後、決してわたしを見ることがない」というのは、主の栄光が神殿から飛び去ったように、主が姿を隠される言葉と見ることが出来ますが、しかしそれは、十字架で殺され、墓に葬られるということです。

 しかも、殺そうとする者に向かって語られた言葉なのですから、恨めしや、呪ってやる、たたってやるという表現のように聞こえます。そういう意味が全くないとは言えないようにも思いますが、しかし、決して呪いではありません。というのは、彼らが主の姿を見ないのは、「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで」と言われているからです。

 「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、「ダビデの子にホサナ」と、歓呼の声をもって主イエスのエルサレム入城を歓迎した言葉です。主イエスを十字架につけて殺そうとしている者たちが、それを言うようになるということは、主イエスがもう一度、エルサレムにやって来られるということになります。

 即ち、これは、主イエスがこの世を審くために再びおいでになるという預言でしょう。そのとき、「十字架につけろ」、「十字架から降りたら、信じてやろう」と言っていた者たちが、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、歓呼の声をもって迎えるようになるというのです。

 それは、主イエスが十字架の死と復活、昇天によって、人々の罪の呪いをご自分の身に受けられ、あらゆる人々を罪の呪いから解放し、救う命の道を開かれたからです。人の子が神の栄光をまとい、天から再びおいでになるとき、人々は、王、裁き主、世界の主としてメシア・イエスを迎えることになるのです。

 救い主イエスを喜びをもって絶えず心の王座に迎え、その御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、私たちはかつて、あなたを知らず、わがまま勝手に主に背く者として過ごしていました。しかし、あなたは私たちを愛して、その罪の呪いから解放してくださいました。どうか私たちの心の王座におつきください。そして、私たちの人生の主、王として私たちの人生を導き、御心のままに主の御業のために用いてください。主の御名によってこられる方に、世々限りなく栄光がありますように。 アーメン