「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 マタイによる福音書19章23,24節

 一人の男が、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16節)と、主イエスに質問しました。この男について、20節では、「青年」と言われており、22節には、「たくさんの財産をもっていた」とも記されています。新共同訳は、この段落に「金持ちの青年」という小見出しをつけています。

 金持ちの青年の質問に対して主イエスは、「なぜ善いことについて、わたに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われました(17節)。父なる神だけが良い方であり、永遠の命へと導く神の御心が、その掟に啓示されているということです。

 男が「どの掟ですか」(18節)と尋ねられると、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」(18,19節)と答えられました。

 守るべき掟について、マルコ福音書10章19節では、十戒の規定(第5~10戒:出エジプト記20章2節以下)が挙げられているのに対し、マタイは、第5~9戒とレビ記19章18節を、そしてルカは、第5~9戒を挙げています。マタイは、「隣人をむさぼるな」という第10戒を「隣人を愛せよ」という戒めに置き換え、22章39節に、律法全体と預言者を支える規定として、レビ記19章18節を再び取り上げています。

 それを聞いた青年は、「そういうことはみな守って来ました」と胸を張り、「まだ何か欠けているでしょうか」と質問します(20節)。ここに青年は、その生活に自信を持っていたのだろうと思われます。そして、「まだ何か欠けているでしょうか」と言いますが、「欠けたところはない」という答えを期待していたのでしょう。

 ところが、その質問に対して主イエスは、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われました(21節)。思いがけない言葉だったことでしょう。青年は自分のことが評価してもらえず、主イエスの言葉に従うことが出来なかったので、悲しみながら立ち去りました(22節)。

 青年が従い得なかった理由を、マタイは前述のとおり、「たくさんの財産を持っていたから」と説明しています。確かに、財産を全部売り払って貧しい人に施し、無一物になって主イエスに従うというのは、誰にとっても容易く出来ることではありません。この青年は、主イエスに従うために全財産を貧しい人に施し与えるのは、永遠の命を得る代価として高すぎると考えたのです。

 退場していく青年の後ろ姿を見送るようにして語られたのが、冒頭の言葉(23,24節)です。ここで、23節で「天の国」といった言葉を、24節では「神の国」と言っています。御名をみだりに唱えてはならないという十戒の規定に従って(出エジプト記20章7節)、「神の国」を「天の国」と言い換えたのです。主イエスはこれらの言葉で、永遠の命を得ることと天の国に入ることを同義として語っておられます。

 主イエスは、天の国に入る難しさは、らくだが針の穴を通る以上のことだという言葉で、事実上、それは不可能と言われていることになるでしょう。その言葉を聞いたとき、弟子たちは非常に驚いて、「それでは、だれが救われるだろうか」と言います(25節)。ここで弟子たちは、救いを天の国に入ることと同義で用いています。そして、自分たちは金持ちではないから救われるだろうとは考えなかったようです。

 その背景には、豊かさが神から祝福されているしるしと考える考え方があるように思われます。そこで、貧しいのは、神に祝福されていないということになるわけです。ですから、神に祝福されている金持ちが天の国に入れなければ、いったい誰が入れるだろうかという言葉になるのでしょう。

 主イエスは、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました(26節)。つまり、救いを人が自分の知恵、力、振る舞いなどによって獲得するのは不可能だということです。ということは、青年に対して出来るはずもないことを要求されたということになるのでしょうか。それはそうかもしれません。出来ないということを教えたかったということでしょう。

 私たちが救われるのは、善い行いが出来たからではなく、神の憐れみを受けたからです。青年は、「善い方はおひとりである」(17節)という言葉を聞いたとき、気づくべきでした。それは、自分は善い者ではありませんし、善い者になることも出来ないということです。

 そのことは冒頭の、「らくだが針の穴を通る」の言葉からも確認されます。エルサレムには、「針の穴」と呼ばれる通用口があるそうです。外敵から町を守るために城門が閉じられた後、夜になってキャラバンが到着すると、そのために城門を開くのではなく、その通用口から中に入れるそうです。

 しかし、「針の穴」という名が示すように、この入り口は小さいので、らくだが荷を乗せたままでは通れません。すべての荷を下ろし、体を低くしないと通れないようになっています。そのことから、自分を誇らせるすべての物、持ち物や才能、プライドなどをおろし、すべてを主の御手に委ねるように謙るとき、はじめてその門をくぐることが出来るということです。

 そこで、私たちに出来るのは、主イエスに頼ること、主イエスに従うことです。そのために、持ち物をみな売り払わなければならないということではありません。持ち物の有無などは救いを保証しません。同様に、善行が救いを保証するわけでもありません。主への信頼、信仰があるかどうかが鍵なのです。

 主イエスが語られる言葉に耳を傾けましょう。出来ないことは出来ないと、素直に申し上げましょう。神が出来るようにしてくださるからです。

 主よ、あなたは私たちのことをすべてご存じです。御前にありのままで立ちます。私たちをあなたが望まれるような者に変えてください。そうして、御旨を行う者とならせてください。主の御旨だけが固く立つからです。御名が崇められますように。御国が来ますように。キリストの平和と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン