「すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」 マタイによる福音書17章5節

 メシアの受難予告から「六日の後」(1節、16章21節以下)、主イエスは、ペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られました(1節)。もしかすると、これは出エジプト記24章16節の、モーセが契約の石の板を授かるために山に登り、七日目に主が雲の中からモーセに呼びかけられたという記事と関連しているのかも知れません。

 また、受難予告から6日を、贖罪日(7月10日)から仮庵祭初日(7月15日)とする解釈もあります(レビ記23章27,34節参照)。この解釈を支えるのが、4節の「仮小屋」を建てようという提案です。仮庵祭のときは7日間、仮庵に住めと規定されているからです(レビ記23章42節)。

 これらのことは、マタイが主イエスを、モーセのような預言者として主なる神によって立てられた者であるということを、確証しようとして記したかのようです。申命記18章15節に、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」とあります。モーセのような預言者として油注がれたメシアなる主イエスによって、新しい契約が結ばれるのです。

 山に登った主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました(2節)。それは、モーセがシナイ山で十戒を授かったときに、顔の肌が光を放っていたという出来事を思わせます(出エジプト記34章30節)。

 しかし、顔の太陽のような輝き、服の光のような白さとは、主イエスがモーセ以上の存在であるという表現と見ることが出来ます。それはまさに、天上におられる主イエスの姿です(ヨハネ黙示録1章12~16節、21章23節も参照)。

 すると、そこにモーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合いを始めます(3節)。モーセは、モーセ五書と言われる律法の書(トーラー)を代表し、エリヤは、預言者(ネビーム)を代表する人物です。旧約聖書を構成し、それを代表する二人と話し合っているということは、主イエスは、旧約聖書に証しされ、それを成就するお方ということを表わしているかのようです。

 また、モーセもエリヤも、ホレブの山で主の前に立ち、主なる神と語り合いました(出エジプト記3章1節以下、19章1節以下、33章11節など、列王記上19章8節以下)。モーセとエリヤが主イエスと語り合っているということで、主の顕現、神が主イエスにおいてご自身を啓示されたということを表わしていると言うことも出来ます。

 さらに、エリヤは火の戦車に乗って天に上って行きました(列王記下2章11節)。モーセはネボ山で息を引き取り、ベト・ペオルの近くの谷に葬られ、誰もその場所を知らないとされていますが(申命記34章5,6節)、モーセも天に移されたという伝説が残っています。それは、主イエスの最後を思わせます。つまり、十字架で死なれた後、三日目に甦られた主イエスが天に上って行かれる情景が思い浮かぶのです(使徒言行録1章9節)。

 三人が語り合っている光景を見たペトロは、上述のように「主よ、ここに仮小屋を三つ建てよう」(4節)と提案します。「仮小屋」と訳されたのは、「幕屋、天幕」(スケーネー)という言葉です。「主よ」とは、旧約では神に対する呼びかけの言葉ですし、モーセに幕屋といえば、神を礼拝するための幕屋を思い起こします。つまり、ここに住もうというより、神の御子、主イエスの栄光を拝する幕屋を建てようという表現とも思われます。

 しかし、ペトロが語り終えないうちに、雲が彼らを覆いました(5節)。それは、「光り輝く雲」でした。ということは、この雲は神の臨在を表すものと考えられます(出エジプト記13章21節、19章6節、40章34節以下、列王記上8章10節以下など)。それと同時に、すべてのものを覆い隠してしまいます。大いなる見物であった主イエスの栄光の姿も、モーセとエリヤの姿も、雲に遮られて見ることが出来なくなりました。

 そこに、声がしました。それが、冒頭の言葉(5節)です。それは、主イエスの声ではありません。モーセやエリヤの声でもありません。それは、雲の中から語られた父なる神の声でした。

 語られた言葉は、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられた時に語られた天の声をなぞるものです(3章17節)。ただし、今回は、「これに聞け」という言葉が付け足されています。それにより、今ペトロたちに求められているのは、主イエスの栄光の姿やモーセ、エリヤを見ることではないということ、そして、聞くべきはモーセやエリヤの声ではないことが示されます。主イエスに聞くことが大事なのです。

 「聞く」とは、ただ耳に入れればよいということではありません。マタイが主張しているのは、聞いて行うこと(7章24,26節)、即ち、主イエスに従うことです。従わない者は、主イエスの声を聞いたことにはならないのです。

 こうして、終わりの日の主イエスの栄光の姿を垣間見させて、それによって主イエスに聞き従う者に与えられる栄光をも見させて、「これに聞きなさい」と招いているわけです。キリストに従うとは、自分を捨てて十字架を負うことですから(16章24節)、その十字架を担うことにおいて、キリストの栄光を見ることが出来ると語られていることになります。

 英語で、No cross, no crown ! (苦難なくして栄光なし)というのは、このことではないでしょうか。十字架の主を仰ぎつつ、その御言葉に従って歩みましょう。

 主よ、日々主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾けさせてください。聴くだけでなく、聴いて行う者、十字架を負って主に従う者とならせてください。かくて、キリストの言葉が私たちの心に豊かに宿りますように。しかして、心から主をほめたたえさせてください。御名があがめられますように。 アーメン