「人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』と言った。」 マタイによる福音書8章27節
8章には、「山上の説教」を語り終えて山を降られた主イエスのもとに、病む人々が次々と訪れて、病気を癒していただきました(1~17節)。そして主イエスは、ご自分を取り囲んでいる群衆を見て、ガリラヤ湖の向こう岸へ行こうと言われます(18節以下)。「人の子には枕する所もない」(20節)ような状況だったので、静かな場所に退くための船出だったのかも知れません。
舟に乗り込まれる主イエスに、弟子たちも従いました(23節)。これは、弟子たちは絶えず主イエスに従うために召されているということを示しているようです。とはいえ、主イエスに従う道は、安全や幸福が保証されているわけではありません。
24節に、「そのとき、湖に激しい嵐が起こり」と記されています。ガリラヤ湖は、東西を高知に挟まれた谷底に位置し、しかも湖面は海抜-213メートmという低いところにありますのでですから、時折、湖に吹き下ろしてくる強風に見舞われることがあるそうです。
ただ、「激しい嵐」は「巨大な地震」(セイスモス・メガス)という言葉です。マルコ4章37節の「激しい突風」(ライラプス・メガレー)を「地震」に変えたかたちで、船が壊れそうなほどの状況をそう表現したのでしょう。弟子たちは湖に漕ぎ出して、激しい嵐に見舞われたわけです。生きた心地がしなかったでしょう。こんなことなら主イエスに従ってくるんじゃなかったと、後悔したかもしれません。
ところが、主イエスは、舟の中で眠っておられました。弟子たちは眠っている主イエスを起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」(25節)と助けを請います。弟子たちの中にはガリラヤ湖の漁師たちもいましたが、激しい嵐の前に全くなす術なく、眠っている主イエスだけが頼みという状況だったのです。
苦しいときの神頼みと言いますが、頼みに応えてくださる神がおられるのは、幸いです。眠りから醒めた主イエスが起き上がって風と湖をお叱りになると、すっかり凪になりました(26節)。主イエスは、私たちの助け、確かな拠り所です。
ただ、主イエスは弟子たちに対して、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(26節)と言われています。こういうときに、落ち着いていられるでしょうか。怖がらない人がいるでしょうか。怖がって当然という状況です。
また、弟子たちは、パニックを起こし、慌てふためいてとんでもないことをしたというわけではありません。唯一の希望である主イエスに助けを乞うたのです。むしろ、「よくぞ私を起こした、祈り求めた」とほめてもらいたいというところではないでしょうか。
ここで、「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われたのは、信仰とはどういうものかを教えようとされたのでしょう。「信仰の薄い者たち」というのは、原文では、「信仰が小さい者たち」という言葉です。その意味では、あなたたちの信仰が小さい、信仰があるように見えないと言われたとも考えられます。これは、信仰があれば怖がらずにいられた、信仰があれば、主イエスを起こす必要がなかったということです。
主イエスはしかし、あなたたちの信仰が認められないので、願いに応えないとは言われませんでした。気合いが足りないぞ、気合いだ、気合いで乗り切れなどとも言われませんでした。「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われながらも、風と湖を静めてくださったのです。
冒頭の言葉(27節)で、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と弟子たちが言っていますが、その答えは記されていません。しかし、明らかでしょう。それは、言葉によって天地万物を創造された神の御子、真の権威ある者です。
敢えて言うならば、私たちの信仰が小さいことが問題ではありません。少しのことで怖がるのが悪いことではないでしょう。臆病さ、気の弱さも神がお与えになったものであるとさえいうことが出来ます。しかし、私たちの臆病さで、主イエスが見えなくなることが問題です。
弟子たちが、「いったい、この方はどういう方なのだろう」と言ったとき、彼らの目に、主イエスはとてつもなく大きな存在に映っているのだと思います。理解を超えた大きさだったことでしょう。
ところが、嵐の船の中ではどうだったでしょうか。とても小さく見えたのではないでしょうか。嵐の大きさに、一緒に飲み込まれてしまうとしか思えなかったのではないでしょう。私たちを舟に乗せて、向こう岸へ渡ろうと言われたのは主イエスなのに、この嵐の中で何もなさらないのかという思いで一杯だったことでしょう。信仰の小さいというのは、私たちが大きな問題を前に主イエスの力を小さく役に立たないものと見ているということです。
そう考えると、「なぜ怖がるのか」というのは、弟子たちのだらしなさを叱っている言葉などではなく、助けを求めた弟子たちに、「怖がる必要はない」という励ましの言葉ではないかと思われます。そして、彼らの信仰の目を開かせた後、風と湖を叱って凪にされ、ご自身の権威、力の大きさを表してくださったわけです。
信仰の目が開かれたならば、主イエスは嵐の中でどうして眠っておられるのだろうかと考えるようになるでしょう。そして、眠っておられる主の姿に平安を見出すことでしょう。また、向こう岸へ行くようにと主が命じられたのだから、必ず向こうへ渡ることが出来ると、主の御言葉に信頼して、一所懸命漕ぐ努力を続けることが出来るようになるでしょう。
信仰の目が開かれるために、私たちは何をすべきでしょうか。苦しいときの神頼みではなく、常日頃、平安無事なときに、私たちの目を開いてください、信仰の目が開かれて、主イエスの力、権威の大きさを悟ることが出来るようにしてくださいと祈り求めることです。
主よ、どうか私たちの心の目を開いてください。嵐の中で眠ることが出来、一言で風も海も従わせられた主イエスにいつも目を留めさせてください。権威ある御言葉に絶えず耳を傾け、御心をわきまえさせてください。聖霊の力を受けて、御心を行う者となることが出来ますように。 アーメン
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