「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」 マタイによる福音書6章12節

 6章の始めに、「善行」(1節)についての教えが記されています。イスラエルにおいて、「施し」(1節以下)、「祈り」(5節以下)、「断食」(16節以下)は、律法の枠を超えた善行と考えられていたようで、これらの善行を行うことで、その人は信心深い人であると、人々が評価してくれるという面があったわけです。

 ところで、「善行」と訳されているのは、「義(ディカイオシュネー)」という言葉です。つまり、神との関係を示すものです。ただ、ヘブライ語で「義」を意味する「ツェデク、ツェダカー」という言葉が、70人訳(セプチュアギンタ:ギリシア語訳旧約聖書)において、「エレエモシュネー(施し)」(2節参照)と訳されることがあります。それを反映してか、1節の「ディカイオシュネー」を「エレエモシュネー」と置き換えている写本があります。

 ということは、1節が18節までの表題ではなく、4節までの「施し」についての表題だったということになりそうです。それが、「偽善者」をキーワードに、「祈り」と「断食」についての教えもここに集められ、そこで、1節の「エレエモシュネー」が「デシカイオシュネー」に置き換えられたという解釈も成り立ちそうです。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1節)という言葉で、善行によって天の父の報いをいただくことが出来るということが示されます。

 しかしながら、注意しないと、その報いが受け取れないことになるというわけです。それは、「見てもらおうとして、人の前で善行を」した場合です。主イエスは、善を行うことを問題にしているのではありません。善行の動機が、人に「見てもらおうとして」、即ち人の好評価を期待するという偽善的なものでないかということを問うておられるのです。

 「施し」(2節)が偽善的にならないように、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(3節)と言われています。これはどういうことでしょうか。実際には、右手が何かを知っているわけではありません。手が何をしているのか、知っているのは自分自身です。

 その意味で、右の手のしていることを左の手が知らないということは、自分が無意識でしている、習慣的に行っていて、いちいち認識しないというようなことでしょう。施しは困窮者の支援のため人されるのであって、そのことで自分に見返りがあるとは考えない、報いを全く期待しないということです。

 「義」なるものは、神様から頂く恵みです。私たちは、神の恵みなしに生きることが出来ません。何が出来るからといって、神様にそれを自分の手柄として誇るわけにはいきません。それは、神の恵みであり、神の賜物によるのですから、ただ、神に感謝して栄光を神に帰し、「なすべきことをしただけです」と報告するのみです。そうすることで、ますます主の恵みに与るのです。

 冒頭の言葉(12節)は、「主の祈り」(6章9~13節)と呼ばれる祈りの一節です。主イエスが、「こう祈りなさい」と言われて教えてくださったので、主の祈りと呼ばれています。あるいは、主イエスがいつも祈っておられたご自身の祈りだから、そのように呼ばれているとも考えられています。

 冒頭の祈りは、主の祈りの中で、5つ目の祈りです。そして、14,15節に、この祈りを解説するように、人の過ちを赦すと、天の父もお赦しくださる、赦さなければ、天の父もお赦しにならないと語られています。これは、解説されなければ分からないほど、解釈困難な言葉とも思われませんし、誤解を生むような微妙な言い回しとも考えられません。

 他の祈りの言葉にはこのような解説がつけられていないということから、この5番目の「罪の赦しを祈る祈り」が、主の祈りの中で最も心を込めて祈られるべき祈り、主の祈りの鍵ともなる祈りであるということを示していると考えてよいでしょう。

 しかし、この祈りには、心に引っかかるものを感じさせるところがあります。それは、「自分に負い目のある人を赦しましたように」という部分です。これは、他者を赦すことが、神に赦される条件だということなのでしょうか。神は私たちを無条件に赦して下さるということではないのかという疑問が生じるのです。

 「赦しましたように」というのは、原文ギリシア語ではアオリスト(不定過去)形ですが、主イエスが用いておられたアラム語には過去形と現在形の区別はないので、私たちも赦しますから、私たちの罪をお赦しくださいという、少し受け取りやすい言葉になるという解釈もあります。神が赦してくだされば、私たちも赦しますという意味に受け取ろうということです。

 しかし、さらに正直にいうならば、神の赦しが前であれ後であれ、私たちは他者の罪を赦すことが出来るのだろうかという疑問があります。神が私たちの罪を赦すという福音は、既に受け取りました。しかし、私たちは友の罪を赦すことが出来ないのです。赦さなければならないことは分かっています。そうすべきだと思っています。けれども、感情がそれを許さないのです。

 だから、この祈りを素直に祈ることが出来ないということが起こるのです。実際に、この言葉を祈れずに、口をつぐんでしまうと言われるのを聞いたことがあります。どうすればよいのでしょうか。どう考えればよいのでしょうか。

 神は、私たちの思いをよくご存じです。いかに赦せない者であるかをご存知です。そして、私たちの必要が何であるのかをご存じです(8節参照)。だからこそ、主イエスが「こう祈りなさい」と教えてくださったのです。赦せない罪を、赦してくださいと祈るのです。

 主イエスは、赦さなくてよいと仰っているわけではありません。私は友の罪が赦せませんが、私の罪は赦してくださいと祈るのではありません。主の祈りを通して、友の罪を赦すという奇跡に導かれることを願うのです。赦せるようにしてくださいと祈るのです。

 主イエスはこの祈りによって、神との関係と隣人との関係が別々のものではないということを教えておられるのではないでしょうか。まさしく、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することと、自分のように隣人を愛するということは、表裏一体の関係にあるのです。だから、神の赦しを祈り求める心で、隣人を赦す心をも祈り求めるのです。

 岩渕まことさんの「願い」という歌に、「愛することを学びながら、赦せる心育てながら、言葉遊びにならぬように、真実と呼ばれる小道をずっと歩いてゆきたい、それが願い」という歌詞があります。アーメンです。私たちが自分で力んで、歯軋りしながらというのではなく、神の愛の奇跡が私たちの心に起こることを祈り願いましょう。そうして、神の義が私たちの内に実を結ぶ恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、あなたは私たちの心をご存じです。人の評価を気にして、善いところを人に見せようとします。そして、友の負い目、過ちを赦すことが出来ません。主イエスが神との正しい関係に生きること、友を赦すことが必要なことを教えていてくださいます。どうぞ主の恵みのうちを歩み、友の赦しを実現させてください。友を赦し、友に赦されることを通して、神の赦しの真実、真の恵みに豊かに与らせてください。 アーメン