「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」 マタイによる福音書5章8節

 5章から、「山上の説教」(5~7章)と呼ばれる、主イエスの御言葉集が始まります。その最初の部分に、八つの「幸い」(マカリオスの複数形)が語られています。ギリシア語原典では、「幸いである」が最初に語られています。それを強調して訳せば、「おめでとう、心の貧しい人々」ということになるでしょう。

 ところで、ここに8つの祝福の言葉が重ねられています。「心の貧しい人々」(3節),「悲しむ人々」(4節)、「柔和な人々」(5節)、「義に飢え渇く人々」(6節)、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)という人々への祝福ですが、、これを聞いて、自分のこととして嬉しくなった方、感動をもってその祝福を受け止めたという方が、どれほどおられるでしょうか。

 中でも、冒頭の言葉(8節)は、6番目に語られた「幸い」の言葉ですが、この言葉を聞いて、これは自分のことだと思える人がおられるでしょうか。むしろ、人前でそのように胸を張って主張することが出来る人はほとんどいないと言った方がよいのかも知れません。

 しかしながら、主イエスが、この祝福を受けるのはとても難しいと思われながら語られたはずはありません。むしろ、すべての人がこの祝福を受けるようにと思っておられるはずです。

 ローマ書3章9節以下で、詩編14編1~3節を引用しながら、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあると語っています。ユダヤ人に、ギリシア人に代表される異邦人を「罪人」として蔑む資格はありません。聖書は明確に、「正しい者はいない。一人もいない」と言っています。ですから、「私の心は清い」と自ら言う者は嘘つきということになりますね。

 しかし、ローマ書3章22~24節には、「即ち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」と記されています。

 イエス・キリストがご自身の命をもって贖ってくださったので、私たちは清い存在とされたわけです。ですから、主イエスの十字架の前に、「私は清くない」と思っているというのは、かえって不信仰ということになるでしょう。

 「清い」というのは、罪を犯したことがないということではありません。火で精錬して不純物を取り除いたり、アルコールで消毒して汚れを清めるという言葉です。私たち人間の中で、過ちを犯さない人などいません。そう考えれば、清さとは、神の御前での素直さということでしょう。罪が示されたときに、それを素直に悔い改めること、恵みが差し出されたときに、それを喜んで受け取ることです。

 あらためて、心の清い人は神を見るという祝福の言葉が語られていますが、これは、神から見られるということでもあるでしょう。神は絶えず私たちをご覧くださっています。私たちが過ちを犯している暗闇も、神の御前に隠れてはいません。

 しかし、暗闇の中にいる私たちには、神が見えません。そして、神も見ておられないかのように思い違いをしているわけです。しかし、心清められて、心すすがれて神を見たとき、神はずっと見ておられたということに気づかされました。そして、主のまなざしの意味を悟ります。

 ルカ福音書22章61節に、三度主イエスを知らないと否んだペトロを、主が振り向いて見つめられたと記されています。そのまなざしはしかし、ペトロに対する憐れみに満ちていたと思います。決して怒りや嘲り、蔑みというようなものではなかったでしょう。「あなたの信仰がなくならないように祈った」(同22章31,32節参照)と言われた主イエスの深い御愛が込められたまなざしでした。

 主の目は、鶏が二度目に鳴いてペトロの方を振り向かれる前から、ペトロの心に向けられていました。だからこそ、鶏が鳴いたとき、正しくペトロの方を向かれたのです。そして、ペトロが主のまなざしに気がつくために、鶏が鳴くように図られたのです。

 主の計らいどおり、鶏の鳴き声でペトロの目が覚めました。ペトロは、主イエスの御言葉を思い出したのです(同61節)。そして、主の御愛が胸に迫りました。ペトロが外に出て激しく泣いたのは、そのためでしょう(同62節)。

 御自分を否んだペトロを贖うために、主は十字架にかかられました。亡くなられ、葬られましたが、三日目に甦られました。そして、主はペトロにもう一度使命を授けられました(ヨハネ福音書21章15節以下)。三度の否定に対して、三度、「わたしを愛しているか」と問いかけ、そして、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。ここに、赦しと愛が示されます。ペトロはそれを受け取って立ち上がったのです。

 私たちも、同じ恵みに生かされています。主は私たちのすべてをご存じです。絶えず共におられ、私たちに目を注いでいてくださいます。そのまなざしは、愛と恵みに満ちています。そのことに気づくとき、私たちは恐れと不安から解放されます。

 そもそも、三度とは、文字通り3回というより、何度も何度もということではないでしょうか。私たちは、言葉と振る舞いで、どれだけ主を否んで来たことでしょう。主に背いたことでしょうか。そういう私たちに、主イエスはその都度、わたしを愛しているかと問うてくださり、そして、改めて、役割を与えてくださるのです。

 聖霊を通して、御言葉によって心すすがれ、いつも目をあげて主を仰ぎましょう。主のご愛に感謝しましょう。導きに従い、主の御業のために用いられる者となりましょう。

 主よ、御子キリストの十字架の死によって私たちを贖い、心を清めてくださり、感謝致します。いつもあなたから見守られていることを知り、私たちも瞬間瞬間、主を拝することが出来ますように。そして、委ねられた使命に励む者とならせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン