「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた。」 マタイによる福音書4章7節

 バプテスマを受けて(3章13節以下)公生涯に入られる主イエスを待ち受けていたのは、悪魔の誘惑でした(1節以下)。そこで、神の子とはいかなる者であるかということが試されました。悪魔は、神の子であれば、これくらいのことは出来るだろう、本当に神の子であるかどうか、証拠を見せろと迫ったわけです。

 第一の誘惑は、空腹となった主イエスに、石をパンに変えて食べるがよいというものでした(3節)。全能の神の子ならば、それくらいのことは朝飯前だろうということです。また、40日に及ぶ断食の後の空腹という非常事態なのだから(2節)、食物を得るのに手段を選ばず、奇跡を行うということも許されるだろうという考えでしょう。

 第二のものは、神殿の屋根から飛び降りて、御使いが支えるかどうか試せというものでした(6節)。この誘惑には、とても巧妙な罠が仕掛けられています。それは、聖書の言葉が用いられているからです。悪魔は、詩編91編11,12節を引用しながら、この御言葉が真実であるかどうか、そしてまた、この御言葉を信じているかどうか、証拠を見せるようにと迫るのです。

 第三は、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて(8節)、悪魔をひれ伏して拝むなら、それを与えようというものです(9節)。力と富を得て、神の国を作れということでしょうか。 私たちが権力や富を追い求めるなら、悪魔の誘惑に陥ってしまうことでしょうね。

 ここで悪魔は、まるで義の試験官であるかのように私たちを試すことがあると示されます。悪魔にその証拠を見せることが出来たとして、何が起こるのでしょうか。それを目撃した人々は、主イエスの力を賞賛し、どうすればそのような奇跡が行えるのかと考えるでしょう。信仰が必要だと言われると、自分もそのような信仰の確信を持つことが出来るだろうかと考えるでしょう。それはあたかも信仰的なことのように見えます。

 しかし、考えて見ましょう。その奇跡を行ってみせることが出来なければ、神が神でなくなるのでしょうか。神の子として、悪魔に奇跡を行って見せなければならないのでしょうか。私たちは、奇跡が行えるかどうかでその信仰が問われるのでしょうか。神は、そのような信仰者となるように期待しておられるのでしょうか。

 悪魔は、主イエスが神の言葉に従うことを求めているのではなく、自分の言葉に従うことを求めています。だからこそ、第三の誘惑で、自分をひれ伏して拝めと言っているのです。これが、悪魔の本音なのです。しかしながら、言うまでもなく、悪魔に従い、悪魔をひれ伏し拝む者が神の子であるはずがありません。

 また、第二の誘惑で悪魔が引用した詩編の御言葉は、確かに御使いが守ることを約束しています。しかしながら、御使いが本当に守るかどうか、屋根から飛び降りて試すというのは、信仰の行動ではありません。試さなければ不安であるというのは、むしろ不信仰を表明していることでしょう。やれば出来るということを示そうというのは、神の栄誉を求めることではなく、自分の信仰の力を誇示することでしょう。

 主イエスはここで、天使が自分の足を支える奇跡が起こるかどうか試す必要はありませんでした。主イエスは確かに父なる神を信頼し、その守りの中におられたのです。

 だから、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節、申命記8章3節)、「あなたの神である主を試してはならない」(7節、申命記6章16節)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(10節、申命記6章13節)という神の御言葉で悪魔の誘惑を退けられました。

 これらの誘惑が一番力強く迫ってきたのは、十字架上でのことでした。悪魔が祭司長たちをして、「お前が神の子なら、十字架から降りて見せろ」と嘲り、ののしらせたのです(27章40節以下)。主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(27章46節)。罪と死の力の前に打ちのめされた絶望の叫びと見えます。

 しかし、主イエスが十字架で死ぬことが神の御心でした。それが、神が神であられること、神の子が神の子であるということを示すことだったのです。ゆえに、十字架を目撃した百人隊長らが、「本当に、この人は神の子だった」(27章54節)と、告白しているわけです。

 十字架の上では、特に何の奇跡も起こりませんでした。けれども、主イエスの十字架の死を通して、私たちの罪を赦し贖う救いの御業を完成するという、最も大いなる奇跡がなされたのです。ここに、神の愛があります。ここに、私たちに対する神の愛の奇跡が示されました。

 私たちは、重い病の癒し、回復、大きな夢の実現などのために神の奇跡を期待し、熱心に祈り求めることがあります。そしてそれは、悪いこととは思いません。しかしながら、神は私たちの願望の僕ではありません。私たちの必要をご存じであり、最善をなしてくださる主を信頼すること、謙って全能の主に聴き従うことが求められています。

 主イエスは、公生涯の初めから十字架の死に至るまで、父なる神に信頼され、御心に従順に歩まれましたから(フィリピ書2章8節)、「天使たちが来てイエスに仕えた」(11節,マルコ1章13節)、つまり、食事の世話を含め、あらゆる奉仕をもって父なる神がどれほど神の子に配慮しておられるかを示したのです。

 御自分の命を捨てて贖いの業を成し遂げるためにこの世においでくださった主イエスを信じましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。聴き取ったところに従って歩みましょう。主なる神がその一歩一歩を守り支えてくださいます。主の恵みと平安に与ることが出来るでしょう。
 
 主よ、絶えず御名を崇めさせてください。御心をこの地に行ってください。私たちの心を占領してください。あなたは愛だからです。私たちに与えられた聖霊によって,あなたの愛が心に注がれています。その恵みのゆえに、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを経験させていただくからです。キリストにある喜びと平和が、全世界に拡げられますように。 アーメン