「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」 マタイによる福音書1章1節

 今日から、新約聖書の1ページ目、マタイによる福音書の1章を読み始めます。1日1章ずつ、来年7月までの
およそ八ヶ月で新約聖書を読み通します。ご一緒に、通読してみませんか。

 マタイ福音書は、マルコ福音書を下敷きとして、マタイとルカの共通資料、マタイ独自の資料を加えて執筆編集されました。執筆されたのは紀元80年代のシリアで、ユダヤ的特色が多く見られることから、著者はギリシア語に堪能なユダヤ教出身のキリスト者と推定されています。伝統的には、イエスの直弟子の一人で徴税人であったマタイが著者だと信じられてきました。 ここでは便宜上、著者をマタイと呼ぶことにします。

 初めに、「イエス・キリストの系図」が記されています。聖書は神様からのラブレターと言われますが、カタカナの名前が羅列されているこの部分を読んで、神の愛を理解するというのは、易しくないかも知れません。むしろ、これが聖書かと幻滅して、読むのを辞めてしまったという話を聞いたことがあります。

 マタイが福音書の書き出しに系図を置いたのは、主イエスが歴史上の人物であることを明らかにするためであり、イスラエルの歴史の頂点に立つお方であること、主イエスの誕生が、決して突然の思いがけない出来事などではないことを明らかにするためです。

 主イエスはイスラエルが歴史を貫いて待望してきたメシア=キリストであり、イスラエルの歴史は、主イエスが登場されるのを目標に積み重ねられてきということ、ゆえに、主イエスの誕生は決して思いがけない偶然の出来事などではないということが、この系図を通して示されています。

 最初に、冒頭の言葉(1節)のとおり、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されています。

 原文を見ると、文頭に「系図」(ビブロス・ゲネセオース:「系図の本」の意)と記されています。この言葉は、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)に2度(創世記2章4節、5章1節)登場します。それは、単なる系図ではなく、天地創造、人間創造の過程を示す箇所です。

 18節で「誕生」と訳されているゲネシスは、1節の「系図」と同じ言葉です。ということは、福音書の最初にこの言葉を置いて、イエス・キリストの誕生によって新しい時代が創造されるということを示そうとしているといってもよいでしょう。

 アブラハムは、旧約聖書の創世記12章以下に登場して来る、今からおよそ4000年前の人物で、イスラエルの父祖と言われます。彼は、神によって祝福の基として選び出されました(創世記12章2節)。

 祝福の基とは、彼が神に祝福されて大いなる人物となること、そして、アブラハムの祝福を通して、地上のすべての氏族が祝福に入るようにされることです。主イエスがアブラハムの子であるということは、主イエスを通して、すべての氏族が祝福に入るようになるということを意味します。

 ダビデは、サムエル記上16章以下に登場する、今から3000年ほど前に現れた、イスラエル史上最も尊敬されている王です。彼は少年時代、羊を飼う仕事をしていました。また、竪琴を巧みに奏する名手でした。また、たくさんの詩を作った詩人でもあります。詩編の多くの詩にダビデの名がついています。

 主イエスがダビデの子というのは、どういうことでしょうか。預言者イザヤは、ダビデの子孫からメシアが生まれるという預言を語っています(イザヤ書11章1節以下)。ここから、メシアをダビデの子と呼ぶ習慣が生まれました。

 マタイは、主イエスこそイザヤの預言していたメシア=キリストであるということを明らかにしようとして、ダビデの子と呼んでいるのです。メシアとは、油注がれた者という意味です。そして、メシアをギリシア語に訳すとキリストになります。つまり、メシアとキリストは同じ意味です。

 2節以下、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」と系図が記されています。一人ずつを取り上げていく暇はありません。これを一纏めにして、17節に、「アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代」と記されています。

 これによると、アブラハムからキリストに至るイスラエルの歴史が、三つに区分されています。アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンへの移住まで、そして、バビロンに移住してからキリストまでという区分です。そしてそれぞれが14代ずつであるというのです。これは単なる数字ではありません。「14」は、「7」という完全数の倍数です。

 それからもう一つ、昔、イスラエルではヘブライ語のアルファベットを数字代わりに用いていました。Aが1、Bが2といった具合です。「ダビデ」はヘブライ語でDWDと書きます。その数字は、Dが4、そしてWは6です。4+6+4で、合計は14になります。

 完全数「7」の倍数であり、ダビデというアルファベットの数である「14」で、イエス・キリストの系図が三つに区分されるということですから、この系図も、主イエスが神によって立てられたダビデの子・メシア=キリストであるということを明示していることになります。

 今、イスラエルの歴史が三つに区分されていると申しました。一つ目の区切りはダビデ、二つ目の区切りは、バビロンへの移住です。アブラハムからダビデまでという最初の区分は、神がアブラハムに約束した祝福が実現するイスラエル王国が形成されるときです。次の区分は、ダビデの子ソロモンからバビロン捕囚までで、絶頂から転げ落ちる王国崩壊の時期です。そして、捕囚からキリストが登場するまでの、いわば暗黒のときがありました。

 この三つがいずれも14代であるということは、そのすべてが神の全き支配の中にあったということを示しており、こうして、神の救いの計画が実現したのだという表現であるということが出来ます。

 この系図が人為的なものであるということは、特に第二区分の「ヨラムはウジヤを」(8節)、「ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた」(11節)と記されているところで分かります。というのも、ヨラムとウジヤの間に、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの三人が省略されており、ヨシヤとエコンヤの間にも、エルヤキム改めヨヤキムが省略されているからです。省略しなければ、14代になりません。

 ヨラムの子孫が系図から省かれることになったのは、彼の妻アタルヤのゆえでしょう。アタルヤは北イスラエルの王アハブの娘(列王記下8章16節)、オムリの孫娘(同26節)です。

 イエフの謀反で北イスラエルの王ヨラムと皇太后イゼベルが殺され、そして南ユダの王でアタルヤの子アハズヤが殺されましたが(同9,10章)、息子アハズヤの死を知ったアタルヤは、王族を滅ぼして自らユダの支配者となろうとしました(同11章)。その咎で、アタルヤの子孫3代が系図から外されたかたちです。

 一方、ヨヤキムが外された理由はよく分かりません。父ヨシヤがメギドで戦死した後(同23章29節)、王として選び出されたヨシヤの子ヨアハズが(同30節)、エジプトのファラオ・ネコによって3ヶ月で退位させられ(同33節)、代わって王となったのがヨヤキムでした(同34節)。神の意に背いてヨシヤが殺されたこと(歴代誌下35章22節)、また、エジプトの傀儡で王となった者は認めないという考えから、省略されることになったのでしょうか。

 神の救いの計画は、上り調子に実現したのではありませんでした。むしろ、ダビデ王朝が崩壊し、主だった者が奴隷としてバビロンに連れて行かれ、イスラエルが滅亡したところで、神の救いの計画が潰えてしまったかに思われました。悪魔サタンにしてみれば、これでメシア誕生を阻止出来たというかのごとき出来事だったわけですが、しkし、それによって神の計画を妨げることは出来なかったのです。

 むしろ、暗黒だからこそ、その暗黒の中で主を求め、救いを求める者が起こされます。そして、主なる神はその祈りに応えて、救いの道を開くためにメシア=キリストを送ってくださったのです。ここにも、万事をプラスに変えられる神の御業を見ることが出来ます。

 主よ、主イエスこそ、道であり、真理であり、命であられます。私たちも主イエスが開かれた御国への道を歩む者としてくださり、感謝致します。聖霊と御言葉によって私たちを御旨に適うように取り扱い、あなたの深い御愛を証しするキリストのよき薫りとしてください。御心がこの地になされますように。 アーメン