「もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや、既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。」 マラキ書2章2節

 2章は最初の段落(1~9節)に、祭司への警告が語られています。彼らは、主の御前にいけにえをささげ(1章7節以下参照)、また人々に真理を語り教える務めを担っています(6,7節)。しかし、いつのころからか、それがおざなりになってしまいました(1章12,13節、2章8節)。

 民の貧しさを見て、最もよいものでなくても、第二、第三のもの、残りのものでもよいとしたのでしょうか。それで、盗んで来たものや足に傷のあるもの、病気にかかっているものであってもよいとしたのでしょうか(13節)。あるいは、自分たちの貧しい状況を変えてくださらないような神に、最もよいものをささげる必要などないと人々から言われたのかも知れません。

 とはいえ、群れの中に傷のない雄の動物を持っていながら、傷あるものを主に献げるのは、偽りを行うことでしょう(1章14節)。そして、それを許したということは、祭司たち自身の神を畏れる心が鈍くなり、礼拝する姿勢が既に崩れていたということを示しています。

 かつて、神はイスラエルの民をご自分の宝の民として選ばれました(出エジプト記19章4節、申命記7章6節)。それは、彼らに祝福を与えるためであり、そしてその祝福がイスラエルを通して異邦の民にも及ぶためでした。ところが、今は冒頭の言葉(2節)の如く、イスラエルの背きの罪のゆえに、祝福が呪いとなってしまっています。

 かつて、エジプトを脱出して約束の地を目指すイスラエルの民に恐れを抱いたモアブの王バラクが(民数記22章3節)、ユーフラテス流域のアマウ人の町ペトルから占いを生業とするベオルの子バラムを招き(同5節)、イスラエルを呪わせようとしました(同6節)。ところが主はバラムに、イスラエルの祝福を告げさせました(同23,24節)。モアブによる呪いを祝福に変えられたのです。

 しかるに今、主は祝福を呪いに変えると警告されます。イスラエルが主の道を踏みはずし、教えによって多くの人をつまずかせて、主の祝福を受けるに相応しくないと判断されたからです(8,9節)。  

 むしろ、異邦の民のほうが、主をあがめ、主の御前に香をたき、清い献げ物を献げていると言われているのです(1章11節)。勿論、重要なのは、どのようないけにえを献げたかというよりも、どのような心でそれをしたのか、ということです。主は、「潔白な手と清い心をもつ人、むなしいものに魂を奪われることなく、欺く者によって誓うことをしない人」を祝福し、恵みをお与えになります(詩編24編4,5節)。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)という言葉もあります。

 主イエスは、貧しいやもめの献金を賞賛されました(ルカ福音書21章1節以下)。この女性の献げたレプトン銅貨2枚は、現在の50円硬貨二つというところでしょう。しかしそれは、この女性の生活費全部だったのです。

 たとえ傷のあるいけにえであっても、それが、最上のものを惜しんでとか、自分が先にとった残り物とかというのではなく、その人の献げられる最上のものであれば、精一杯の献げ物であれば、人は喜ばなくても、主はそれを喜ばれるでしょう。外面的には傷がなくても、病気でなくても、いとよきものを献げようという心からの献げ物でなければ、主は喜んでくださらないのではないでしょうか。

 主イエスの贖いによって救われ、神の民とされた私たちも、いかにして神の道に歩み、その聖なる御名にふさわしい栄光を神に帰するかということを学ぶ必要があります。私たちの信じる主は、畏れとおののきこそがふさわしい大いなる王であるということを知るべきです(5節、1章14節)。

 もう一度、主イエスを全地の大いなる王として崇めましょう。私たちを創り、私たちを贖い、私たちを愛し尽くされる主に、心からの賛美のいけにえを捧げましょう。私たちに御霊を注いで力を与え、主の証人としてお立てくださった主の使命を、喜んで果たしましょう。

 「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」(詩編47編2,3節)。ハレルヤ!

 主よ、御名を崇めて感謝します。あなたこそまことの主、まことの神。あなたの他に私たちを救うことの出来るお方はありません。あなたにあって、命と平和を得ました。与えられている恵みを呪いに変えてしまわないように、御言葉に聴き、その導きに従って歩みます。いつも目を覚ましていることが出来ますように。 アーメン