「見よ、良い知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く。ユダよ、お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた。」 ナホム書2章1節(口語訳・新改訳では1章15節)
 
 長い間、アッシリアに圧迫されていたユダに、良い知らせがもたらされます。冒頭の言葉(1節)で、「良い知らせを伝え」は、ヘブライ語原典で「バーサル」という一つの単語です。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)も「エウアンゲリゾマイ」の一語でした。これは、「福音を告げる」という言葉です。福音というものは、告げ知らせるためにあると言わんばかりの言葉遣いですね。

 「平和を告げる者」(マシュミーア・シャローム)は直訳すると「平和を聞かせる者」という言葉で、良い知らせをもたらす者は、「平和(シャローム)」を叫びながら、山(複数形)の上を行きます。高い山々から全地に福音を届けるのです。

 これはイザヤ書40章9節の「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせを伝える者よ」という言葉や、同52章7節の、「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」という御言葉を思い出させます。

 主イエスが、「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ福音書5章14節)と言われたのも、同じ消息でしょう。主イエスは、山の上で説教を語られました(5~7章)。また、復活された主イエスが山の上で弟子たちと会い、福音をすべての民を弟子とせよとの宣教命令を与えました(28章16節以下)。

 もたらされたグッドニュースは、「お前の祭りを祝い、誓願を果たせ。二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない。彼らはすべて滅ぼされた」というものでした。まず、「お前の祭りを祝い」は、アッシリアに隷属させられ、そのアッシリア化政策によって禁じられていた祭りを、再び祝うことが出来るようになるということです。

 「誓願を果たせ」とは、神に誓ったことを実行せよということです。ユダの民は、もしもアッシリアから解放してくださるなら、感謝のいけにえをささげ、神の恵みの御業を記念する祭りを行うというようなことを、神に誓っていたのではないでしょうか。だから、「お前の祭りを祝い、誓願を果たせ」と言われるのでしょう。

 「祭」というのは、いけにえの肉を手に持って神に献げるという文字です。祭のメイン・イベントは、いけにえを神に献げることです。この場合、「満願の献げ物」(レビ記7章16節など)を感謝と喜びをもって神にささげるのです。

 そして、「二度と、よこしまな者がお前の土地を侵すことはない」ということで,その支配が終わったことを告げます。ここで、「よこしまな者」の原語は「ベリアル」で、「価値がない、無価値」という意味の言葉です。申命記13章14節では「ならず者」と訳されていました。ここでは、ニネベのこと、そしてまた、アッシリアの王たちのことを指していると考えられます。

 2節の「襲いかかる敵」(メーフィーツ)は「散らす者」という言葉です(新改訳参照)。ニネベの町の人々を襲って散らす敵がやって来るというのです。4節に「勇士の盾は赤く、戦士は緋色の服をまとう」とありますが、これは、エゼキエル書23章14節の「朱色に描かれたカルデア人」という言葉もあり、敵がバビロン軍であることを示しているようです。それに対するアッシリア軍は紫(新改訳では青)でした(同23章6節)。

 ニネベの町は、西側にチグリス川が流れ、町の周囲13kmを8mから18mもある高い城壁で囲み、更に堀を巡らしていました。ただ、町の中をコスル川という水路が東から西に流れ、チグリス川に注いでいました。この水路の水を堀に引いていたのです。伝説によれば、この水路の水を操作されて、それがニネベが陥落する要因の一つになったそうです。7,9節の記述は、その水攻めを示しているようです。

 12節以下は、ニネベの町を「獅子の住みか」として描きます。かつてニネベは獅子のように周囲の国々を襲い、打ち破って来ました(13節)。しかし、「獅子の住みかはどこに行ったのか」(12節)ということは、壊滅させられてしまうということです。ニネベの守護神イシュタルは愛と肥沃の女神ですが、獅子に象徴される戦いの女神でもあります。ナホムはそれを嘲笑うかのように、「獅子の住みかはどこに行ったのか」というのです。

 というのも、「わたしはお前に立ち向かうと万軍の主は言われる」(14節)というように、襲いかかる敵とは、カルデア人を用いてアッシリアにその怒りを注ぎ出した主なる神ご自身だからです。だから、「砦を守り、道を見張れ。腰の帯を締め、力を尽くせ」(2節)というのは、思い切り皮肉を込めた言葉なのです。それは、主なる神の攻撃の前にはどんな防御も役に立たないからです。
 
 ところで、2節の「よこしまな者」という言葉は、やがて「破滅」を意味するようになり、新約時代にはサタン、悪魔を意味するようになります。第二コリント6章15節に、「キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか」と記されており、ベリアルは、キリストに敵対する存在とされているわけです。

 その意味で、ナホムがここでニネベ、あるいはアッシリアの王たちを通してユダとエルサレムの住民を苦しめている悪魔を「ベリアル」と名づけ、よこしまで無価値、破壊する死の力が、まことの神によってまもなく滅ぼされると語っていることになります。主なる神はどのようにして、このベリアルを滅ぼされるのでしょうか。

 教会は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、罪と死の力が破られたことを見ました。主イエスは、罪と死の力に打ち勝たれ、高く挙げられて神の右に座しておられます。このお方がもう一度この地上においでくださるとき、神の支配が完成するのを、私たちは期待し、待ち望んでいるのです。

 「主に望みをおく人は新たなる力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)とあります。私たちが望みを置いているのは、実に倦むことなく、疲れることなく、その英知は極め難いと言われるお方です((同28節)。

 今の時代、見えるものに惑わされず、真の主を仰ぎ、その導きに従って「よい知らせ」を携え、命の道、真理の道を、一歩一歩着実に歩んで参りましょう。

 主よ、御名をほめたたえます。あなたの時を待ち望んでいます。時が近づいていることを悟らせて下さい。眠りから目覚め、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身にまとわせてください。高い山に登り、キリストのシャロームを告げ歩かせてください。 アーメン