「あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみを喜ばれるゆえに。」 ミカ書7章18節

 これまで見て来たように、神は私たちの犯す罪を、黙って見過ごしにはされません。むしろ、厳しく断罪されます。けれども、神は罰を与えたくて、私たちを裁かれるわけではありません。誰が、愛する者を裁きたいでしょうか。可愛い子どもに鞭を当てるのは辛いこと、悲しいことです。

 ミカは、「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、わたしの好む初なりのいちじくもない」(1節)と語ります。「夏の果物」(カイツ)は、アモス書8章1節にも登場します。それは、北イスラエルの「最後」(ケーツ)を示す、語呂合わせによる裁きの預言でした。ミカが告げているのは、ぶどう園に赴いたが、摘むべき実がなかったということです。

 2節に、「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、密かに人の命を狙い、互いに網で捕らえようとする」とあります。つまり、摘むべきぶどうの実とは主の慈しみに生きる者、初なりのいちじくとは、正しい者ということで、公正と正義という実を実らせているべきエルサレムの町に、何ひとつその実を見ることが出来なかったということです。

 むしろ、都の人々は暴力をもって人の命を奪い、また隣人を陥れることばかり考えています(2節)。役人、裁判官が私利私欲のため、賄賂を取って公道を曲げています(3節)。「最善の者も茨のよう」(4節)とは、トゲばかりあって無益なものということでしょう。隣人、友人も信頼できず(5節)、家族の中にも信頼や尊敬を見ることができません(6節)。

 「悲しいかな」(1節)と歌い始めているとおり、ミカにとって、エルサレムの都は嘆くほかない状況であり、 「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる」(4節)と、神の裁きが目前に迫っていることを告げるのです。

 しかし、預言者はそのような悲しみの中で、ただ絶望しているわけではありません。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(7節)と、信仰の言葉を語ります。同胞には期待が持てなくても、むしろ失望せざるを得ない状況にあって、そこでなお憐れみの神に頼り、救いを待ち望むのです。

 そうして、冒頭の言葉(18節)を語ります。ここで、神は私たちの「咎を除き、罪を赦される」お方であると言います。そして、神は私たちの咎を除き、罪を赦すために、御子イエス・キリストを贖いの供え物として十字架にかからせなさいました。それによって私たちは、主イエスを信じる信仰を通して義とされるのです(ローマ書3章21節以下、24節)。

 義とは、神との正しい関係ということを表します。「義」という漢字は、「羊」の下に「我」と書きます。罪を取り除く神の小羊である主イエスのもとにひれ伏すとき、私たちは義とされるという文字になっているわけです。さらに、「我」という漢字を調べると、これは「手に持った刀を振り下ろす」という字で、義は羊を殺すことによって成立するということでした。

 つまり、羊を殺して神にささげ、それによって私たちの罪を赦していただき、神との関係が回復され、元通りの交わりが持てるようになるのです。かくて、5章1節が救い主の誕生を預言したものと受け止められたように、冒頭の言葉(18節)は、救い主による贖いの業を預言したものと受け取ることが出来ます。

 不義な私たちを義とするため、キリストを十字架の犠牲とされたのは、神の深い愛のゆえ、憐れみのゆえでした。神は私たちを愛し、義とするために罪を裁かれるのです。そして、神との関係が正された私たちは、光に導かれます。9節に「主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る」とあるとおりです。

 ヨハネ福音書8章12節で主イエスは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。また第一ヨハネ1章7節に、「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とあります。

 この交わりは、何よりも素晴らしい神との交わりです。罪が清められ、神の子どもとされます。永遠の命を受け、永遠の関係に入れられます。これは、神が一方的に私たちに与えてくださったものです。決して私たちの行いによるのではありません。まさしく、「主の恵みの御業」です。主イエスを信じたとき、主はこの恵みを味わわせてくださいました。

 そして、キリストの光を頂いた私たちは、主イエスが語られたごとく、この地において、人々の前にその光を輝かす「世の光」とならなければなりません(マタイ福音書5章14~16節)。私たちの天の父なる神が崇められるようになるためです。そのために、神は私たちを約束の聖霊で満たし、主イエスの証人となる力をお与えくださいます(使徒言行録1章8節)。

 聖霊の満たしと導きを求め、主の愛の証し人、救いの証し人とならせて頂くことが出来るように祈りましょう。

 主よ、あなたの義と愛による恵みの御業に心から感謝致します。私たちもあなたの光に導かれました。どうか、私たちを用いて御業を行い、あなたの光をこの地に輝かせてください。そのために、私たちを絶えず聖霊に満たしてください。この地において御心が行われ、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン