「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ。今、お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる。」 ミカ書4章10節

 1~3節には、イザヤ書2章2~4節とほぼ同じ言葉が記されています。ミカとイザヤは、ヒゼキヤ王の代に活動が重なる部分もありますので、どちらかが相手の預言を引用したのではないかと考えられています。勿論、共通の預言が神から与えられたと考えることも出来ます。

 1節冒頭に、「終わりの日に」とあります。はっきりといつと特定されてはいませんが、未来にこの世が終わりを迎えるときと考えたらよいでしょうか。そのとき、あらゆる国民が高くそびえる主の神殿のある山に来て、どのように生きるべきかを教える神の言葉を学ぶと言います(2節)。つまり、エルサレムが世界の中心になるということです。

 そして、彼らは戦争をやめ、剣や槍という武器を、鋤や鎌などの農具に打ち直します(3節)。争いは過去のものとなり、「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(4節)平和を味わいます。人類はいつの日か、この預言が実現するのを見ることが出来るでしょう。しかしそれは、ぼんやり待っていれば、そうなるということではありません。

 主イエスが、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語られたように(マタイ福音書5章9節)、平和の実現に向けて行動することが求められており、そのための祝福がなされているのです。平和の実現のための行動とは、剣や槍などをを用いない、隣人を愛し、その祝福を祈ることです。それこそ、主イエスが十字架を通して、私たちに手本を示されたものです。

 このような預言がここに記されているのは、これからイスラエルの民の上に起こるであろう過酷な運命の中でも、希望を失わないように、主を信じるようにということではなかったかと思います。ミカは、冒頭の言葉(10節)で、「お前は町を出て、野に宿らねばならない。だが、バビロンにたどりつけば、そこで救われる」と語っています。

 アッシリアがサマリアを滅ぼし、いよいよエルサレムに迫ってくるという状況にあります。そのとき、ミカがこの預言を語ったわけです。バビロン捕囚というのは、これから100年以上も後のことで、バビロンはまだ国を形成していませんでした。

 ただ、サマリアが陥落したとき、アッシリアの王はイスラエルの民を捕囚として連行し、バビロンから人々を連れて来て、サマリアに住まわせました(列王記下17章24節)。ですから、エルサレムが陥落すれば、同じようにその民をバビロンに連れて行き、エルサレムに別の民を住まわせるというのは、十分想定されるところでしょう。

 そして、100年余り後の紀元前587年に、エルサレムがバビロン軍によって陥落させられ、民が捕囚とされる事態となり、ミカの預言が彼の想定を越えて実現したかたちです。  

 しかし、ここで見逃せないのは、「バビロンにたどりつけば、そこで救われる。その地で、主がお前を敵の手から贖われる」という言葉です。なぜ、バビロンに連行されることが救いなのでしょう。その地で、敵の手から贖われるとはどういうことでしょうか。

 イスラエルが滅亡し、バビロンで奴隷として働かされるのは、悲劇です。それが救いとなり、贖いとなるということは、この背後に神の御計画、神の御業があるわけです。つまり、単にイスラエルがアッシリアやバビロンとの戦いに敗れたから、亡国、捕囚という憂き目を見るのではないということです。

 そのことが11節以下で、イスラエルに対し、神の裁きを実行するために集結している諸外国、たとえばアッシリア、そして後のバビロン、イスラエルを取り巻いている国々が、イスラエルが裁かれたように裁かれて、イスラエルによって滅亡という苦難を味わうというところに示されます(13節)。そのことを通して、主なる神こそが究極的な主権者であることを表されるわけです(7,8節参照)。

 イスラエルは、その罪のゆえに神に裁かれなければなりませんでした。しかしながら、神はイスラエルを攻め滅ぼしてしまいたいのではありません。救いたいのです。その罪を贖う用意が、神にあるということでしょう。そこに神の愛があります。憐れみがあります。亡国・捕囚という苦しみを通らなければ学ぶことの出来ない恵みが、そこにあるのです。

 「娘シオンよ、子を産む女のように、もだえて押し出せ」(10節)と語られているように、その苦しみは、出産時の陣痛、産みの苦しみなのです。後にエレミヤがバビロン捕囚について、「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と記しています(エレミヤ書29章11節)。

 「今、身を裂いて悲しめ」(14節)と言われているように、主の御前に罪を告白し(第一ヨハネ書1章7,9節)、謙りましょう。万事を益としてくださる主を信じ(ローマ書8章28節)、その導きに従いましょう。

 主よ、あなたの恵みと憐れみのゆえに感謝します。私たちの国には様々な問題があります。およそ平和を実現しようとしての所業とは思われません。しかし、その問題のかなたにあなたの導きの御手があると信じます。私たちを主の器として整え、用いてください。御心がこの地に実現しますように。御国が来ますように。 アーメン