「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。」 ホセア書8章7節

 1節で、「角笛を口に当てよ」と言われます。角笛は、町に危険が迫っていることを警告する警笛として、城壁の上で吹き鳴らすものです。預言者ホセアはこのとき、櫓の上にいる見張り役として、[鷲のように主の家を襲うものがある」ので、警笛を吹き鳴せと、主なる神から命じられているのです。申命記28章47~57節によれば、外敵の来襲を「鷲」に準えています。つまり、イスラエルに外敵来襲の危機が迫って来ているわけです。

 それは、彼らが神の契約を破り、律法に背いているからでした(1節)。それにも拘わらず、「わが神よ、我々はあなたに従っています」(2節)というのは、神の恵みを自ら退ける偽善の罪です(3節)。「恵み」と訳されているのは、「善」(トーブ)という言葉です。だから、「敵に追われるがよい」と言われるわけです。

 また、神によらず王を立て、高官たちを立てました(4節)。それは、神の指導には従わないということでした。そして、金銀で偶像を造りました。神の禁じられた偶像礼拝を行っていることです(4~6節、出エジプト記20章3~5節)。

 「お前の子牛を捨てよ」(5節)とは、ヤロブアムがベテルとダンに金の子牛像を置いてそれを拝ませたことを思わせます(列王記上12章28節以下)。その後、アハブが北イスラエルの首都サマリアにバアルの神殿を建て、バアルの祭壇を築きましたが(同16章31,32節)、ホセアはそこにも子牛像が置かれていたことを明らかにしています(6節)。

 冒頭の言葉(7節)に、「彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る」と記されています。イスラエルの種蒔きは、わが国のそれとはかなり違っています。畑を耕し、畝を起こして、一粒でも無駄にならないように丁寧に蒔くというのではありません。

 種の入った袋を振り回して一帯に種を蒔き散らした後、そこを耕すというやり方をするのだそうです。遠くまで種を蒔くためには、少々風が吹いていたほうが都合がよかったでしょう。「風の中で種を蒔き」とは、そのことです。

 そういう蒔き方をすれば、主イエスが種まきのたとえで語られたように(マルコ福音書4章1節以下)、あるものは道端に落ち、あるものは石地に落ち、またあるものは茨の中に落ちたというのは、さもありなんということになります。多くの種が蒔かれたところが耕されて、そこがよい畑となるわけです。よい地に落ちた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びます。

 しかし、「嵐の中で刈り取る」ということは、せっかく種が芽を出し実っても、収穫前に嵐が来れば、すべてが無駄になってしまう、すべての労苦が水の泡となってしまうということでしょう。これは、イスラエルの人々は国際情勢の風を読みながら、うまく舵取りが出来ているように思っているかもしれないこと、しかしながら、それが一切無駄になってしまうということを示しているようです。

 ただし、原文を直訳すると、「彼らは風を蒔いて、嵐を刈り取る」という言葉になります(口語訳、新改訳、岩波訳も参照)。コヘレトの言葉1章14節に、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」という言葉があり、風を追うことは空しいことと言っています。

 「風」を蒔くことは、風を追うことと同様、何の助けにならない空しいことだということです。だから、「嵐」に象徴される「滅び」を刈り取ることになるのです。たとえ、「(麦粉を)作ったとしても、他国の人々が食い尽くす」ということで、自分たちの努力が無駄になるというより、他国に奪い去られることを明示しています。

 7章11節に、「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプトに助けを求め、あるいは、アッシリアに頼って行く」と記されていました。それは、真の造り主を忘れ、その保護をあてにしないことです(14節)。エジプトに助けを求め、アッシリアに頼ることは、まさに風を追っているようなもので何の力にもならず、最後は時代の嵐に飲み込まれてしまいます。

 かつて栄えたエジプトやアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ、また、蒙古、大英帝国など。どの国が人類の希望となれるでしょうか。どの国が究極的な救いを保障してくれるでしょうか。

 人の力に頼るのは空しいことです。人は誰も、自分ひとりを救うことさえ出来ません。あなたを、私を救ってくれるのは、主イエス・キリストだけです。真の主を信じ、真の主に依り頼みましょう。日々の生活の中で、主を仰ぎ、主に従う道を歩み、確かな実を収穫することが出来るようにしていただきましょう。

 主よ、導きを感謝します。私たちにはもはや、罪の償いの祭壇は必要ありません。主イエスの十字架という確かな祭壇が、主ご自身によって打ち立てられたからです。私たちは十字架の主を仰ぎます。御言葉に耳を傾けます。どうぞ、御霊に満たしてください。あなたの御言葉がこの身になりますように。 アーメン