「入り口の上まで、また神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた。」 エゼキエル書41章17,18節

 エゼキエルは神の幻の中でエルサレムの都の新しい神殿に導かれ(40章2節)、いよいよ、神殿の最も神聖な場所にやって参りました。拝殿(聖所)に入り(1節)、さらにその奥の至聖所の前に進みます(4節)。

 ソロモンの神殿では、エゼキエルが拝殿と呼んでいる聖所に、七つ枝の燭台と香の祭壇、パンを置く聖卓がありました(列王記上7章48,49節)。そして、至聖所には契約の箱が安置されていました(同6章19節、8章6節)。そして、至聖所を守るように高さ十アンマのケルビムが2体据えられていました(同6章23節以下)。エゼキエルの見た新しい神殿には、まだ何も置かれていないようです。

 冒頭の言葉(17,18節)に、「神殿の内側と外側にも、さらに周囲の壁にも内側と外側に、くまなくケルビムとなつめやしの模様が刻まれていた」という報告があります。これは、ソロモンの神殿にも見られたものです(列王記上6,7章参照)。

 なつめやしの実は食用で栄養価が高く、甘味料としても貴重なものです。この木は、太陽の灼熱にも霜が降りる寒冷にも耐えますが、生育に多量の水分を必要とするため、河川や湖沼の岸辺に好んで生息するので、荒れ地で水の所在を示す徴ともなります(出エジプト記15章27節)。

 また、木の美しさと相俟って、なつめやしは繁栄や優美さの象徴とされています(詩編92編13節、雅歌7章8,9節など)。なつめやしはヘブライ語で「タマル」と言いますが、これは、女性の名前としてもよく知られています(創世記38章6節など)。

 ケルビムは、「ケルブ」(詩編18編11節)の複数形で、人間の顔、獅子の体、鷲の翼を持つ天的な存在として、描かれています。サムエル記下22章11節(詩編18編11節)には、「(主は)ケルビムを駆って飛び、風の翼に乗って現れる」と記されており、神が移動されるときの乗り物として、神の臨在を表していると考えられます。

 また、神はエデンの園の中央にある命の木を守るために、園の東にケルビムを置かれました(創世記3章24節)。神殿の壁に刻まれた模様で、ケルビムの顔がなつめやしの方を向いているというのは(18,19節)、ケルビムがなつめやしを守っているということでしょう。つまり、創世記との関連で考えると、なつめやしが命の木の象徴とされていることになります。

 かつてエデンの園は、神が人を連れて来て住まわせ、神と相見え、交わることが出来るようにされた場所でした(創世記2章8,15節以下)。ところが、人は神に背いて罪を犯し(同3章1節以下)、そこを追い出されてしまいました(同23節)。その後、神と相見え、交わる場所は、至聖所に限定され、しかも、大祭司として選ばれた者が一年に一度しか入れない場所になっていました(レビ記16章参照)。

 勿論、神が至聖所から外に出ることが出来ないということではありません。神は、どこにでもおられます。しかしながら、いつでも、どこででもお会い出来るという存在でもありません。至聖所が拝殿の奥に配置され、それを聖所(拝殿)、内庭、内壁、外庭、外壁で守っているのは、それは汚れた人間が汚れたままで清い神と触れ合い、打たれてしまうことがないためです。

 つまり、そのような神殿の構造は、主なる神は他と完全に区別されるべき聖なる方、だれも並び立つこのとできない絶対者であるということを示しているわけです。そもそも、「至聖所」とは「聖の中の聖、聖にして聖なるもの」(コーデシュ・ハッケダシーム)という言葉です。 

 しかしながら、主イエスが十字架にかかって死んでくださったとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けました(マルコ福音書15章38節ほか)。それは、私たちが神に近づく道を開くことでした。主イエスがご自身を贖いの供え物として、私たちを罪の呪いから解放してくださり、主イエスを信じる者が神の子として、神と親しく交わることが出来るようにしてくださったのです。

 ヘブライ人への手紙の記者は、垂れ幕とはキリストご自身の肉のことで、主がご自分の肉を裂いて新しい生きた道が開かれたのだから、主を信頼して、真心から神に近づこうと奨めています(ヘブライ書10章19節以下参照)。

 主の御言葉に従い、絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰をもって神に近づきましょう。その恵みに与りましょう。

 主よ、御子イエスが十字架において、私たちのためにご自身の命をもって贖いの代価を支払われ、救いの道を開いてくださいました。今、主との親しい交わりに招いていてくださることを感謝致します。招きに応じ、十字架の主を仰ぎつつ御前に進みます。御言葉と祈りを通して、絶えず新たに主の恵みを味わわせてください。 アーメン