「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。」 エゼキエル書37章4,5節

 37章には、預言者エゼキエルが主の霊に導かれて見た幻が記されています。

 そのときエゼキエルが見たのは、無数の骨でいっぱいになっている谷でした(1節)。その骨は、「甚だしく枯れていた」と言われます(2節)。触っただけで壊れてしまうような状況ということです。主なる神はこれを、「これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『われわれの骨は枯れた。われわれの望みはうせ、われわれは滅びる』と」と解説しておられます(11節)。

 この言葉から、エゼキエルがこの幻を見たのは、エルサレムが陥落したという報告が届いた第12年10月5日(紀元前585年1月ごろ、33章21節以下を参照)以降だと思われます。つまり、バビロンで奴隷生活を送っている捕囚民にとって、エルサレムが陥落したという報せは、すべての希望が断たれたことを意味していたのです。

 彼らは、エルサレムには壮麗な神殿があり、そこに主なる神がおられて、最後にはイスラエルを救ってくださるに違いないと考えていました。そしてまた、エジプトが、バビロンを滅ぼしてくれるものと期待していたのではないでしょうか。

 しかし、エジプトの援軍はエルサレムに届かず、イスラエルのために神風は吹かないまま、ついに命運つきたかたちで都が陥落し、ゼデキヤ王は捕虜となってしまったのです(列王記下25章1節以下)。その報せを受けた捕囚の民は、まさに生ける屍というような精神状態になっているわけです。

 主は預言者エゼキエルに、冒頭の言葉(4節)のとおり、その骨に向かって、「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語らせます。神の御言葉こそ、私たちの道の光であり、その歩みを照らす灯です(詩編119編105節)。御言葉は私たちに命を得させます(同119編25,107節)。

 私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません(第二コリント4章8,9節)。神が前からも後ろからも私を囲み、御手を私たちの上に置いて恵みを与えてくださるからです(詩編139編5節)。

 主はさらに続けて、「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る」(5節)と語らせられました。初めに神が人間をお創りになるとき、土の塵で人を形づくられた後、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。枯れた骨に霊を吹き込むというのは、もう一度神の息を吹き込んで、枯れた骨を生き返らせようとされることです。

 エゼキエルが主の命じられたとおり預言すると、骨が組み合わされ、筋と肉が生じ、皮膚が覆いました(7,8節)。さらに霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、生き返りました(9,10節)。この幻は、希望を失い、落胆していた民が、新たな希望を与えられ、御言葉に聴き従う真の神の民が再創造されるということを示しています。

 主イエスがお甦りになって弟子たちにそのお姿をお見せになったとき、彼らに息を吹きかけながら、「聖霊を受けなさい」、と言われました(ヨハネ福音書20章22節)。これは、神が命の息を吹き込まれて人が生きる者となったことになぞらえ、主の弟子たちが聖霊の息吹を受けて、世界宣教の使命に生きる者とされたことを示しているのです(同21節、使徒言行録1章8節参照)。

 私たちの真の希望は、まさしく主なる神にあります。主が御言葉を通して、私たちに信仰を与えてくださいます(ローマ書10章17節)。希望を与えてくださいます。それにより、苦難をさえ喜びとすることが出来ます。それは、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(同5章1~5節)。

 聖霊は、私たちの救いの保証であり(第二コリント書1章22節、私たちが神の子とされていることを、証明してくださいます(ガラテヤ書4章6節)。また、弱い私たちのために呻きをもって執り成し(ローマ書8章26節)、それによって万事が益となるようにされます(同8章28節)。

 主の御言葉を聞きましょう。心を聖霊に満たして頂きましょう。

 主よ、絶えず私たちに御言葉を与えてください。私たちの心を聖霊で満たしてください。主は、求める者によいものを、特に聖霊をお与えくださると約束してくださいました。約束通り、求めたものは既に与えられたことを信じて感謝します。 アーメン