「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」 エゼキエル書36章26節

 36章では、イスラエルの山々の繁栄の回復が語られます。これは、35章でセイル山に向かって、裁きの預言が語られていたことに対応しています。それは、セイル山と表現されたエドムが、イスラエルに対して悪をなしたことに対する神の裁きでした。

 また、前に6章でイスラエルの山々に対する裁きの預言を読みました。6章と36章をあわせて読むと、神の御心が伝わってきます。

 イスラエルの民は、神の宝の民、祭司の王国、聖なる国民として選ばれました(出エジプト記19章5,6節)。彼らは、イスラエルを選ばれた主なる神こそ、唯一、真の神であることを全世界に示さなければなりませんでした。その方法は、神の御声に聴き従うということです。

 イスラエルが裁かれたのは、この使命を疎かにし、かえって異教の神々を祀るという背きの罪を犯し、派閥争いで流血の事態を生じていたからです。そのことを17節で、「イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した」と記しています。それゆえ、神の憤りが彼らの上に注がれたのです(18節)。

 その結果、イスラエルの民は国々の中に散らされ、諸国に追いやられました(19節)。即ち、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンに滅ぼされ、それぞれ捕囚とされてしまいました。エルサレムに残された者も、その後、エジプトなどへ四散させられてしまったのです。

 そういう経験をしたから、イスラエルが主なる神の御前に悔い改めたというわけではありません。「彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した」(20節)と言われるとおりです。

 ところが、ここから思いがけない展開を迎えます。神の裁きを受けて四散させられてなお悔い改めず、御名を汚しているイスラエルを、さらに厳しく裁いて滅ぼしてしまおうとはなさらないのです。その時主なる神は、「わたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」(21節)と言われました。

 そこで、「わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる」(22,23節)と、イスラエルの家に告げさせられます。

 即ち、神に背き続け、繰り返し罪を行ったイスラエルの民を、もう一度主なる神の選びの民としてたてることで、ご自身の名を聖とされるというわけです。それは、民が主なる神が聖なる方であることを示すことができるようになったからというのではなく、主ご自身がイニシアティブをとって民に主の御名が聖であることを表させるというのです。

 それは、イスラエルの民の内側からの変革です。そのためにまず、清い水が振り掛けられます(25節)。それは、イスラエルの罪を清める水です。そして、冒頭の言葉(26節)のとおり、心が変えられるように、新しい霊、即ち、新しい命が授けられます。頑なで真理を悟ることも信仰を保つこともできなかったイスラエルの民が、主なる神に聴き従う柔らかな心を持つようになるのです。

 主は彼らを先祖に与えた地に住まわせ、イスラエルの家が主の民となり、主がイスラエルの神となられます(28節、11章19節参照)。それは、イスラエルと主なる神との間に新しい契約が結ばれるということです。それが、イスラエルの家を主の民とされる神の御業ですが、そのためには、イスラエルの家は亡国と捕囚という苦難を通らなければならなかったのです。

 主イエスが、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)と言われ、さらに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同5節)と言われました。これは、エゼキエルが語った言葉が、主イエスによって確認されているようです。

 今、捕囚の苦しみの中にいる民にとって、この預言は大きな希望を与えたことでしょう。辛いことがあっても、希望があれば乗り越えることが出来ます。辛いとき、私たちは十字架の主イエスを仰ぎます。主イエスが私たちを癒し、慰め、助けてくださいます。

 「辛い」という漢字と「幸せ」という漢字をよく見てください。よく似ていますね。「辛い」という字の上に十字架を置くと「幸せ」という字になるのです。辛い人が主の十字架を仰ぐと幸せになるという、偶然などという言葉では済ませられない、キリストの福音が示される文字ですね。

 私たちに新しい心を与え、新しい霊を授けてくださる主を信頼し、絶えずその御声を聴きましょう。

 主よ、私たちに新しい心を授けてください。石のように冷たく固い心ではなく、柔らかなみずみずしい心、人の痛みの分かる心を授けてください。キリストの愛が人々の心を満たしますように。全世界に、キリストによる平和がありますように。 アーメン