「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。」 エゼキエル書34章23節

 34章には、牧者と呼ばれている、イスラエルの王をはじめ政治的、宗教的な指導者たちに対する裁きが記されています。
 
 詩編23編には、羊と牧者との素晴らしい信頼関係を見出します。それは、牧者が絶えず羊と共にいて、体をはって羊を守り、鞭と杖で羊を正しい道に導くからです。そこに詠われている牧者とは、主なる神ご自身のことです。

 そして主なる神は、王や祭司たち指導者をいわば副牧者として立て、ご自分の群れを彼らの手に託されたわけです。彼ら指導者は、羊の群れを託されて、それを守り養う務めを神から与えられていたわけです。

 けれども、彼らがその務めを果たさないどころか、自分自身を養うために群れを利用したと言われます。それは、羊の乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた羊を屠って食べて(3節)、自分自身を養ったということです(8節)。

 ところが、「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを捜し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」(4節)と言われるごとく、牧者としての務めをまったく果たさないので、群れは野の獣の餌食となり、野に山に、散り散りになってしまいました(5節)。

 つまり、イスラエルの指導者たちがその地位を利用して利益を貪り、実際には指導者としての役割を果たしていなかったということになります。それは、羊の毛についた寄生虫のようなもので、民の指導者でも保護者でもなかったわけです。 

 そこで、神は群れを牧者たちから取り上げ、もはや牧者たちの餌食とはさせない(10節)、神自ら牧者となって、群れを探し(11節)、散らされた場所から救い出し(12節)、よい牧草地に導き、養うと言われるのです(13~16節)。即ち、神はもう一度、詩編23編に詠われているような、羊と牧者との間に素晴らしい信頼関係を回復したいと考えておられるのです。

 また、神は肥えた、強い羊をも裁かれます。彼らが小さいもの、弱いものを押しのけ、突き飛ばし、外へ追いやったからです(16節以下、21節)。指導者たちが神に裁かれていましたが、羊たち自身にも非難されるべき問題があったのです。

 神は、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(16節)ために、冒頭の言葉(23節)のとおり、「一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」と言われました。これは、ダビデのように神の御心にかなう牧者が立てられ、その群れを牧するようになるという預言です。

 そして、主なる神は、ご自身の独り子、主イエス・キリストをダビデの子孫としてこの世に送り、牧者としてお立てになりました。主イエスは、「わたしは良い羊飼いである」と言われ(ヨハネ福音書10章11節)、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)と仰られました。ここに、エゼキエルの語った預言が実現しています。

 そしてまた、主なる神は、御自分の羊の群れのために悪い獣をその土地から断ち(25節)、季節に従って雨を降らせ(26節)、野の木は実を結び、地は産物を生じるので、群れはそこで安んじていることが出来ます(27節)。

 これは、主なる神がその群れの神となり、彼らがその民となるという、神と群れとの契約があらためて結ばれたことを示しています(24,25節)。捕囚の民となったイスラエルに向かい、エゼキエルをとおして、ここに新しい契約についての神の言葉が語られています(エレミヤ書31章31節以下参照)。

 私たちの主は、一匹の迷い出た羊を見つけるまで探し、見つけると肩に担いで連れ戻してくださる方であり(ルカ福音書15章)、傷ついたものを宿に運び介抱される主(ルカ10章30節以下)です。今日も真の主を仰ぎ、主の御声に従って参りましょう。そこに癒しがあります。そこに平安があります。そこに力があります。

 主よ、御言葉を感謝します。今日も私たちの先に立ち、また私たちのしんがりを守って共に歩んでくださることを感謝します。私たちを上から恵みで覆い、下から強く支えてくださることを感謝します。いよいよ主の御名を崇めさせてください。主のご栄光を褒め称えさせてください。 アーメン