「民は来て、あなたの前に座り、あなたの言藁を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。」 エゼキエル書33章31節

 預言者エゼキエルが、再びイスラエルについて預言を始めました。24章で自分の妻の死を通してエルサレムの陥落と神殿の破壊を預言して以来、諸国民に対する預言が続き、イスラエルについては沈黙して来ました。今再び、エゼキエルに主の言葉が臨みました(1節)。

 21節に、「我々の捕囚の第十二年十月五日に、エルサレムから逃れた者がわたしのもとに来て言った。『都は陥落した』と」という言葉があります。ということは、1節の主の言葉は、24章15節以下にある妻の死を通しての象徴的行為預言から、33章21節以下のエルサレム陥落の報告に対する主の託宣までの間に、エゼキエルに臨んだ言葉ということになります。 

 主はエゼキエルに、「わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない」(7節)と言われます。これは、3章17節に語られていたのと同じもので、それが繰り返されているということは、改めてエゼキエルを見張り人(主の警告を告げる預言者)として主が召しておられるわけです。

 3章では、エゼキエル個人に向けて語られたものでしたが、ここでは、見張り人の責任や、その警告に従うべきことが、民に向かって語られます(2節以下)。見張り人の使命を理解し、協力することが求められているのです。

 見張り人が警告の角笛を吹いたとき、兵士たちは武器をとって城壁の防御を固め、住民たちは安全な場所に身を隠さねばなりません。おのおのが自分の責任を自覚せず、その定めを実行することを疎かにするなら、町を守ることができません。一人の人物の行為が他者に、時には全体に、大きな影響を与えることになります。自分に与えられた使命は、他者に対する責任を伴っているわけです。

 これまでエゼキエルは、真の神に頼らず、異教の神々を礼拝し、また、エジプトの軍隊に依り頼んでいるために、神の裁きとしてバビロン軍がエルサレムに攻め上り、滅ぼそうとしていること、周辺諸国、就中エジプトも裁きを受けようとしていることを警告して来ました。しかしながら、それをしっかり受け止め、神の御声に聴き従おうとする者はほとんどいなかったようです。

 改めて見張り人として召されたエゼキエルは、これから、どのようなことを民に告げ知らせることになるというのでしょうか。勿論、ここに具体的な出来事が想定されているわけではありませんが、捕囚後の未来に向かって、新しい役割が与えられようとしているということでしょう。 

 捕囚の民が、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」(10節)と言っていました。捕囚となった原因を「我々の背きと過ち」と考え、それが神に裁かれて亡国の憂き目を見たのであれば、もはや生きる希望はないというのです。
 
 しかるに神は、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(11節)と言われます。イスラエルの民が悔い改めて神に立ち帰るなら、彼らには生きる道が備えられます。希望があるのです。

 一方、エルサレム陥落の報告がもたらされたとき、エゼキエルに臨んだのは厳しい言葉でした。エルサレムの廃墟にいる者たちは必ず剣に倒れ、野にいる者はすべて獣の餌食となり、砦と洞穴にいる者は疫病によって死ぬ(27節)、そして、その地は荒廃し、そこを通る者もなくなるというのです(28節)。

 このように厳しく語られるのは、エルサレムの滅亡したわけを理解せず、アブラハムの契約をたてに、「アブラハムはただひとりのとき、この土地を所有していた。我々の数は多い。我々にこの土地は所有として与えられている」(24節)と、土地の回復と繁栄を期待しているからです。

 彼らは、神が忌み嫌われることを行い、それによって滅びを招いていながら(25,26節)、どうしてアプラハムの契約を神の前に持ち出せるのでしょうか。自分自身の罪に対する鈍感さが、彼らを愚かにしているのです。

 捕囚の民は、「さあ、行って、どんな言葉が主から出るのか、聞こうではないか」(30節)と、エゼキエルの語る言葉を聞きに来ました。かつて、「イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない」と言われていましたが(3章7節)、エゼキエルの預言どおりにエルサレムが滅ぼされたのを見て、これから何があるのか聞いてみよう、と人々が言い始めたのです。

 表面的に見れぱ、状況が良い方向に変わってきたように思われます。けれども神は、「民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている」(31節)と告げておられます。

 この期に及んでなんと愚かなことと思いはしますが、しかし、自分の危機に気づかない愚かさというのは、決して他人事ではありません。その愚かさゆえに、真剣に神の御言葉を聞こうとしませんし、今それで不自由がなけれぱ、それでもよいのです。

 この愚か者とは、だれでもない私のことです。私はすぐに愚かになります。鈍感になります。怠け者になるのです。御言葉の前を離れると、自分の姿を忘れてしまうのです。だからこそ、絶えず謙り、神を畏れてその御言葉を聴かねぱなりません。主の御言葉を聞き、そこにとどまる者は、真理を知り、真理は私たちを自由にするのです(ヨハネ8章32節)。

 主なる神よ、どうか私たちの耳を開いてください。絶えす御声を聴くことが出来ますように。どうぞ私たちの心を清めてください。「悪人が死ぬのを喜ぱない」と仰ってくださるあなたの御心を深く悟ることが出来ますように。 アーメン