「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」 エゼキエル書6章10節

 主の言葉がエゼキエルに臨み(1節)、「人の子よ、顔をイスラエルの山々に向け、それに向かって預言して、言え」(2,3節)と命じ、イスラエルの山と丘、川と谷に築かれていた聖なる高台、祭壇、香炉台、偶像など、異教の礼拝が営まれていたところを荒らして廃墟とされ(3~6節)、異教の神を拝んでいた人々を剣と飢饉と疫病で死に至らせると告げられます(7節以下、11節、5章12節、7章15節も参照)。

 偶像とは、人が彫刻し、あるいは鋳造した神の像のことです。しかし、まことの神は、人が神の像を造ることを厭われます(出エジプト記20章3~7節、34章17節、レビ記26章1節など)。それは、創造主なる神と被造物なる人間の立場を逆転させ、神を自分の思い通りにしようとすることだからです。

 まことの神を離れて異教の神を礼拝することを、姦淫と呼ばれます(9節、出エジプト記34章15節、申命記31章16節など)。神は、イスラエルの民に愛されること、礼拝されることを求めておられるのであり(出エジプト記23章25節、申命記6章4,5節など)、その御心は、イスラエルの民が神に信頼し、御言葉に従って歩み、恵みを得、平安で豊かな生活を送ることにあるのです。

 剣と飢饉と疫病によって多くの民が死に至る中で、諸国に散らされる人々がいます(8節)。そのとき、「剣を逃れたものを諸国民の間に残しておく」(8節)と言われます。

 エレミヤ書52章30節には、バビロンに捕囚として連れ去られた人の総数が4600人と記されています。列王記下24章14節には、「すべての高官とすべての勇士1万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去った」と記されており、数字が合いませんが、いずれにせよ、剣や飢饉、疫病で命を落とした者たちのほうが圧倒的に多く、残された者は一握りということになります。

 かつて、出エジプトの民は、兵役に就くことの出来る男性だけで、60万人余いました(民数記1章46節、26章51節)。さらに、ダビデのときには、イスラエルに80万、ユダに50万、合わせて130万の戦士がいたのです(サムエル記下24章9節)。

 その一握りの者たちが、捕囚として連れ去られた地で、まことの神を思い起こします(9節)。そして、冒頭の言葉(10節)によれば、何故自分たちが亡国の憂き目に遭い、捕囚とされたのか、理由を悟るようになるということです。

 6章の中に、「わたしが主であることを知るようになる」という言葉が4度出て来ます(7,10,13,14節)。神は、イスラエルの民がこのまことの知識に到達することを願っておられ、そのために神の民の生き残る道を造られたとも言えそうです。

 それはしかし、苦難を伴う道でした。国を失い、多くの同胞を失い、異国で異教の民に奴隷として仕えなければならなかったのです。あるいは、死んでしまったほうがよかったとも思えるような苦しみを味わい、屈辱的な経験をしたことでしょう。

 しかるに神は、深い愛のゆえに、民を滅ぼし尽くそうとはなさらず、救いの道を備えられます。それは、イスラエルの民が捕囚として連れ去られたバビロンの地で、神を離れ去る姦淫の心、偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕かれるということです。

 そのことを通して、イスラエルが亡国と捕囚という苦しみを味わわなければならなくなったのは、この偶像礼拝の罪の故であったと知るようになるのです(10節)。そうして、イスラエルの民が主なる神に立ち帰り、霊とまことによる礼拝が始まるならば、彼らの苦しみは、いわば産みの苦しみということになり、その苦しみはやがて、大きな喜びに変えられます(ヨハネ福音書16章21節)。

 前章でも学んだように、イスラエルの民の味わった苦しみは、彼らを愛してやまなかった主なる神ご自身の苦しみでもあります。即ち、愛する者に背かれる苦しみであり、そして、愛する者をその罪のゆえに罰しなければならない苦しみです。

 そして、主なる神は、独り子の主イエスに全人類の罪を背負わせ、十字架につけてしまわれました。その死により、私たちは贖われ、命に与ったのです。

 主を知るとは、主なる神についての知識を得ることではなく、まさに主がお与えくださった永遠の命に与ること、その恵みを味わうことなのです(同17章2,3節)。

 絶えず主を仰ぎましょう。御言葉に聴き従いましょう。 

 主よ、あなたから離れる姦淫の心、異教の偶像に惹かれる姦淫の目を打ち砕いてください。絶えず主に目を注ぎ、心から主を礼拝させてください。御霊の導きにより、新しい歌をもって主をほめたたえさせてください。御子キリストが私たちを罪から贖い出し、神の子とする信仰の道を開いてくださったからです。いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン