「人の子よ、あなたは鋭い剣を取って理髪師のかみそりのようにそれを手に持ち、あなたの髪の毛とひげを剃り、その毛を秤にかけて分けなさい。」 エゼキエル書5章1節

 4章に続いて、神によるイスラエルの民の裁きが語られます。それは、民の三分の一が疫病、三分の一は剣で殺され、残りは諸国に離散させられるというものです(12節、エレミヤ書15章2節など)。捕囚を免れた者たちは、皆、大変過酷な運命を味わわされたのです。

 13節で神は、「わたしは彼らに向かって怒れるだけ怒り、憤りに身をまかせて、恨みを晴らす」と言われています。それは、エルサレムの民が神に背き、その裁きを拒んで主に聴き従おうとしなかったからです(6節)。「お前はあらゆる憎むべきものと忌まわしいものをもってわたしの聖所を汚した」(11節)と言われるとおりです。

 そこで、親がわが子を食べ、子がその親を食べるという忌まわしいことが起こり(10節)、あらゆる裁きをもってイスラエルを神の民からそり落とし、憐れみの目をかけず、同情もしないとさえ告げられています(11節)。

 それをイスラエルの民に告げるのに、エゼキエルに奇妙なことをさせます。それは、冒頭の言葉(1節)のとおり、髪の毛とひげをそり落とすことでした。そして、その毛を秤にかけて三分の一づつに分け、一つは都の中で火で燃やし、一つは剣で打ち、残りは風に乗せて散らさせます(2節)。エゼキエルの髪の毛とひげが、イスラエルの民に降りかかる運命を象徴していたわけです。

 しかし、髪の毛とひげをそることは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことでした。特に、祭司の家に生まれたエゼキエルにとって、それは律法で禁じられている、身を汚すことだったのです(レビ記21章5節)。5節に、「これはエルサレムのことである」と告げられています。神の選びの民イスラエル、その都エルサレムが、神の御前に惨めな恥ずべき姿になっていることを、剃毛によって示したわけです。

 また、イスラエルには死者を悼み、嘆きを表すために、剃髪する習慣がありました。ですから、イスラエルの民が神に裁かれることを悼み、嘆くように主が命じられているとも考えられます。これは、二者択一というより、様々な意味がそこに込められているということだろうと思います。

 もしかすると、エゼキエルに剃髪の恥を負わせ、おのが民の裁きを示すように命じられた神ご自身が、民の死を悼み、苦しんでおられることも、そこに表わされているのかも知れません。イスラエルはご自分が憐れみによって選び分け、愛を注いで守り導いて来た民ですから、それを裁いて滅ぼしてしまうことを何とも思わないという神ではありません。

 神に聴き従わない背きの罪、神ならぬ者を神として拝み、頼りにならないものに依り頼もうとするのは、自ら滅びを招く愚かなことです。危機に際し、「溺れる者は藁をもつかむ」ものですが、しかし、藁では何の役にも立ちません。

 神は、民を裁きたくて裁くのではなく、裁かざるを得なくてそうしている、つまり、民を愛すればこその裁きであり、それゆえに、愛すればこそ苦しむのです。それは、イスラエルの民を裁き滅ぼしてしまうためではなく、悔い改めて真に信頼に足るお方のもとに立ち帰らせるためです。

 放蕩息子は、生前贈与された父親の財産を好き勝手に使い果たして身を持ち崩し(ルカ15章31節以下)、飢えを凌ぐため豚飼いとなり、の餌で腹を満たしたいと思うほどになります。そこで我に返り、父親の元に戻る決心をしました。父親が財産の生前贈与を認めたのは、それこそ裁きでしょう。

 父親の庇護を離れるとどうなるか、息子は身をもって味わったのです。そして、父親は息子の帰りを、自分のはらわたが痛むような思いで待ち続けていました。息子の苦しみは父親の痛みでもあったのです。ゆえに、帰って来た息子を喜び迎え、持てるすべてのものを彼に与えます。

 この例え話が示しているのは、主イエスの十字架です。神は、放蕩息子のごとき私たちを愛して、その罪を赦し、神の子として受け入れてくださいました。そして、その罪の呪いを独り子のキリストに負わせられたのです。主イエスの十字架の苦しみは、神ご自身の苦しみです。そしてそれは、罪人の私を愛するがゆえの苦しみなのです。

 エフェソ書5章8節に、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」とあります。それをリビングバイブルは、「あなたがたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と意訳しています。主の愛を受けた者としてそのことを態度で示し、周囲の人々に主の愛を証ししましょう。

 主よ、十字架の主を仰ぎます。キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストの死は、神が私たちを愛してくださったからこそであり、神の愛に生きる者になるようにと、強く促されます。今日も、あなたの御言葉に耳を傾けます。御心をわきまえさせてください。御言葉を行う者とならせてください。主の愛の証人となることが出来ますように。 アーメン