「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 エゼキエル書2章6節

 神の顕現に接して御前にひれ伏しているエゼキエルに、神が語りかけられました。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(1節)。ここで、エゼキエルは「人の子」(ベン・アーダーム)と呼ばれています。この表現は、人、人間一般を指して用いられます。しかし、エゼキエル書においては、エゼキエルの呼び名として用いられていて、神の御前にある人の小ささ、弱さを示すものであろうと考えられます。

 「自分の足で立て」と命じられますが、霊がエゼキエルの中に入って立たせたと報告されます(2節)。それは、実際に立ち上がったというよりも、神のために働く預言者として召されたということを表しているのです。立候補すれば預言者になれるわけではありません。人が推薦したり、選挙したりしてなるものでもありません。神ご自身が預言者として選ばれ、神の霊によって立てられるのです。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)というのは、そのことを言っているわけです。

 神はエゼキエルに、「わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」(3節)、「恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす」(4節)と言われます。遣わされるのは、「主なる神はこう言われる」(4節)と告げさせるためです。

 「主なる神はこう言われる」というその内容は、まだ明らかにされてはいません。まったくの白紙といってよいでしょう。何を語らなければならないのか、今はまだ分かりません。預言者が口を開くのは、自分が語りたいかどうかではありません。神の言葉に同意したから、それに得心がいったからというのでもありません。まさに、神の語られた言葉を、ただそのまま告げ知らせるだけなのです。

 そして、この務めは、決して楽なものではありません。なぜなら、エゼキエルが神の言葉を告げ知らせる相手は、「わたし(主なる神)に逆らった反逆の民」(3節)であり、「恥知らずで、強情な人々」(4節)なのです。ゆえに主は、冒頭の言葉(6節)のとおり、「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」と言われます。

 これは、恥知らずの民を恐れることなどない、強情な人々など恐れるに足りないということではありません。あざみと茨に押しつけられるのです。蠍の上に座らされるのです。即ち、酷いことをされるということでしょう。痛い目に遭わされるということでしょう。誰が怖がらないでいられましょうか。誰が進んでそんなところに行きたいと思うでしょうか。

 「主がこう言われる」と、語るよう命じられる御言葉をそのまま告げ知らせるとき、エゼキエルにはそのような苦痛や危険が待ち受けているというわけです。恐れに満たされることでしょう。逃げ出したい思いに駆られることでしょう。

 しかしながら、エゼキエルには、この使命を拒むことは許されていません。「あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(8節)と言われるのです。彼には、主の御言葉に従うほか、進むべき道はありません。たとえ口に苦くても、それを呑み込むしかないのです。ここに、預言者として務めを果たす厳しさを思います。

 「口を開いて食べなさい」と言われて差し出されたのは、巻物でした(9節)。その巻物を開くと、表にも裏にも文字が記されており、「それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」(10節)でした。巻物といえば、エレミヤがバルクに書き記させた預言のことを思い出します(エレミヤ書36章2節以下)。

 エレミヤはその巻物を、神殿で人々に読んで聞かせるようにさせました(同5節以下、8節)。それを聞いた役人たちがヨヤキム王に読み聞かせました(同20節以下)。ヨヤキム王は、その巻物をすべて暖炉で燃やしてしまいました(同23節)。

 エレミヤが巻物に書かせた言葉は「哀歌」などではなかったと思いますが、ヨヤキムはそれを悲しい思いで聞いたのではないでしょうか。それは、イスラエルの背きの罪を糾弾し、バビロンがイスラエルを滅ぼすと告げるものだったからです(同29節)。 

 エゼキエルに与えられた巻物も、そこに書かれている言葉が嘆きの言葉、悲しみの言葉というよりjも、それを語り聞かせられた人々に嘆きや悲しみを与えるということでしょう。しかし、それが神への悔い改めにつながるというのではなく、かえって彼らをいよいよ頑なにして、エゼキエルにアザミと茨を押しつけ、サソリの上に座るようにさせるというのです。

 主イエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ福音書8章20節)と言われ、また、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられます。

 私たちは、主イエスの深い愛によって救われました。使徒パウロは、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。

 「私ならば出来ます」という勇気も力もありませんが、主がせよと言われるのでしたら、「お言葉ですから、やってみましょう」と、従わせて頂きたいと思います(ルカ福音書5章5節参照)。知恵も力もないことは、主なる神のほうが先刻承知なのですから。

 主が「せよ」と言われるということは、そう命じられる主ご自身の権威、権能、権勢をもってそれを成し遂げてくださるということだと信じます。そのために、霊が私たちの中に入り、自分の足で立てるようにしてくださると信じます。信仰をもって主の御言葉を聴きましょう。

 主よ、信じます。信仰のない弱いわたしをお助けください。聖霊の満たしと導きに与り、力を頂いて主の証人としての使命を全うすることが出来ますように。聖霊によって語るべき言葉を示してください。なすべき務めに遣わしてください。願わくは、御名が崇められますように。御国が来ますように。キリストの平和と喜びが、日本全土にありますように。 アーメン