「第30年の4月5日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」 エゼキエル書1章1節

 今日から、エゼキエル書を読み始めます。本書の著者エゼキエルについては、ここに記されている以外のことは、全く不明です。3節に、「祭司ブジの子エゼキエル」とあり、ユダヤの祭司職は世襲なので、エゼキエルも、幼いときから祭司となるための教育を受けて来たものと思われます。

 冒頭の言葉(1節)のはじめに、「第30年」とあるのは、恐らくエゼキエルの年齢を指しているものと考えられます。これは、祭司の家系に属する者が祭司に就任する年齢でした(民数記4章3節)。

 けれども、エゼキエルは現在、エルサレムの神殿にはいません。ケバル川の河畔に住み、バビロンの奴隷として働かされていました。ですから、もしかするとエゼキエルは、エルサレムに帰って、祭司として働きたいという夢も希望も、完全に失っていたかも知れません。ところが、そのケバル川河畔にいたエゼキエルに、神がご自身を顕されたのです。

 「それは、ヨヤキン王が捕囚となって第5年の、その月の5日のことであった」(2節)というのですから、紀元前593年の夏の頃ということになります。ということは、エゼキエルが25歳の時、エルサレムがバビロン軍に攻撃されて降伏し、エゼキエルは、ヨヤキン王らと共に囚われの身となり、バビロンに連れて来られたわけです。

 かつて、神はイスラエルを選ばれ、エルサレムに都を置かれました。そこに、ダビデの子ソロモンが、主なる神に礼拝をささげるための壮麗な神殿を建てました。けれども神は、一つの国、ひとつの町、一つの場所にだけ限定して御自身を顕わされるというのではなく、いつでも、どこにでもおいでになり、顕現されることがお出来になるのです。

 4節以下にその様子が記されています。彼の見た光景があまりにも荘厳で神々しく、とうてい言葉で表現し得ないようなことを、何とかその様子の一端だけでも言い表そうと努力した結果、非常に難解な文章になってしまっているのだと思います。しかし、伝えようとしていることは分かります。

 「四つの生き物」(5節)、あるいは、「四つの顔を持つ生き物」(15節)の傍らに、ひとつの車輪が見えました。「四つの顔を持つ生き物」は、ケルビムを象徴しているのだと思います。そして、車輪とは、契約の箱を象徴しているようです。

 かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から解放されたとき、神はイスラエルの内にあって共に旅するために、神の幕屋と共に契約の箱を作らせ、蓋を贖いの座としてその上にケルビムを置き、そこをご自分の臨在を表す場所、玉座と定められました(出エジプト記25章8節以下)。

 「生き物の霊が、車輪の中にあった」(21節)というのは、契約の箱の中に、契約のしるしとして十戒を記した石の板が入れられていたことに対応していると考えられます。

 このような光景が、今バビロンの捕囚とされているエゼキエルの眼前に鮮やかに表されたということは、このケバル川のほとりが神のいます場所、神に礼拝をささげるべき場所として選ばれたということを示していることになります。これは夢でしょうか、幻でしょうか。到底、現実のこととは思われません。しかし、エゼキエルにとって、これは大きな希望となりました。

 かつて、イザヤが神殿にいて、主なる神が高く天にある御座に座しておられるのを見ました(イザヤ書6章1節)。その時、主の衣の裾が神殿いっぱいに広がっていました。御座の上にはセラフィムがいて(同2節)、主を讃えていました(同3節)。エルサレムの神の宮と天の御座がつながっていたのです。 

 バビロンは、神のおられない、神に呪われた場所などではありません。また、一生の間、奴隷として、したくない仕事をしていなければならないということでもありません。エゼキエルのいるケバル川のほとりと天の御座がつなげられました。主なる神は今その捕囚の民の上におられ、エゼキエルを神の祭司として、神と人の間に立ち、神の言葉を語り、人々を執り成す務めに立てようとしておられるのです。

 捕囚としてバビロンに連れられて来て5年、30歳となった今、そのときが来ました。かつて、ヤコブがルズの地で天に届く梯子を幻で見、そこを「ベテル(=神の家)」と呼んだように(創世記28章10節以下参照)、今、神がケバル川のほとりを神の聖所とされ、その祭司として神に召されたことを、エゼキエルは知ったのです。

 私たちも信仰の目を開いて絶えず主の十字架を仰ぎ、耳を開いて主の御言葉を聞かせていただきたいと願います。今のような時代だからこそ、主の御声が聴かれなければなりません。聴いたところに従って、主の御業が進められる必要があります。

 日毎に主の御前に進み、主の御言葉に耳を傾けましょう。自分に語りかけられる主の御声を聴きましょう。そして、その身備置気にしたがった歩みましょう。 

 主よ、どうぞ御業のために、私たちを整え、用いてください。私たちに聞くべき御言葉を聞かせ、語るべき御言葉をお与えください。また、御言葉に従って行動することが出来ますように。そうして、御心がこの地になりますように。御名が崇められますように。 アーメン