「我々はぶどう酒を飲みません。父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです。」 エレミヤ書35章6節

 35章には、「レカブ人の忠誠」という小見出しがつけられていますが、ここに登場する「レカブ人」について、詳しいことはよく分かりません。歴代誌上2章25節に、「これらは、ベト・レカブの父ハマトから出たカイン人である」と記されており、ユダ南部の荒れ野のカイン人と血縁関係にあるものと思われます。

 冒頭の言葉(6節)に、「レカブの子ヨナダブ」という人物の名が記されていますが、この名は、列王記下10章15節に、「イエフがそこを出て進んで行くと、彼を迎えに出たレカブの子ヨナダブに会った」と記されており、そのときヨナダブは、イエフと協力してアハブ王の家を滅ぼし(同16,17節)、バアルに仕える者たちを一掃したと述べられています(同23節以下)。

 1節の「ヨシヤの子ヨヤキムの時代」とは、紀元前609年から598年までの間の11年間を指します(列王記下23章36節以下)。11節に、「今は、バビロンの王ネブカドレツァルがこの国に攻め上ってきたので」と記されているので、バビロンがアッシリアを支援したエジプト軍をカルケミシュで破り、パレスティナ一帯の制覇を目論んでエルサレムに攻め上って来た紀元前601年ころということになるでしょう(列王記下24章1節)。

 そのとき、レカブ人一族は、バビロン軍の攻撃により、エルサレムで避難生活をしていたのです(11節)。主はエレミヤに、彼らを神殿に招き、ぶどう酒を飲ませよと命じられました(2節)。そこでエレミヤは主の命に従い、一族全員を神殿の一室に招き、ぶどう酒を振舞います。

 ここで、異邦人がエルサレム神殿の一室に入ることが出来たというのは、とても不思議なことです(エゼキエル書44章7節、使徒言行録21章28,29節参照)。主のご命令ということで、特別に許可されたのでしょうか。それとも、イエフに協力して北イスラエルからバアルに仕える者を一掃した折りに、彼らは主に仕える者となったということでしょうか。

 話を元に戻して、エレミヤが「ぶどう酒を飲んでください」と言ったとき(5節)、レカブ人はだれ一人、振舞われたぶどう酒を飲もうとしませんでした。それは、父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまで、ぶどう酒を飲んではならないと命じていたからです(6節)。

 ヨナダブはまた、家を建てるな、種を蒔くな、ぶどう園を作るな、また、それらを所有せず、生涯天幕に住むようにと命じ(7節)、そうすれば、お前たちが滞在する土地で長く生きることが出来ると請け合っていました。ある種、農耕文化を拒否し、遊牧生活に留まるということを家訓としたわけです。そして、ヨナダブの子孫は、その家訓を忠実に守り続けていたのです(8~10節)。

 主なる神はエレミヤに、レカブ人はその父祖ヨナダブの命令に聞き従っているのに、ユダの人々とエルサレムの住民が、神である主の言葉に聞き従おうとしないのはどういうことか。だから、予告していたとおり、あらゆる災いをユダとエルサレムの全住民に送るとエレミヤに告げさせます(12節以下、17節)。

 主は今、イスラエルの民が断酒を実行するよう求めておられるわけではありません。禁欲的な生活を求めておられるというわけでもありません。

 何を求めておられるのか、それは、「おのおの悪の道を離れて立ち帰り、行いを正せ。他の神々に仕え従うな」(15節前半)との主の命令に、レカブ人のごとく忠実に聴き従うことです。そうするならば、「わたしがお前たちと父祖に与えた国土にとどまることができる」と約束されていました。それはヨナダブが子孫に、お前たちの滞在する土地で長く生きることができると請け合っていたことに通じています。

 主なる神は繰り返し預言者を遣わして、御言葉に聴き従うよう、招き続けてこられました(14,15節)。7章25節には、「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした」と記されていました。けれども、ユダの人々は、主の御言葉に耳を傾けず、その招きに応答しませんでした。

 主が繰り返し語られ、繰り返し預言者が遣わされたのは、民がその言葉に耳を傾けようとしなかったからです。それゆえ彼らの上にあらゆる災いが臨み(17節)、結局、主が彼らに与えた国土に留まることが出来ないようになってしまったわけです。

 主が忠実さを求められるという点で思い出されるのは、マタイ福音書2章14節以下にある「タラントンのたとえ話」です。主人が僕たちに財産を預けて旅に出、帰って来たときにそれを精算するという話です。

 預けられたもので商売し、利益をもたらした僕には、「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(22,23節)と言い、そうしなかった僕には、「怠け者の悪い僕だ」(26節)と言って彼に預けた財産を取り上げ(28,29節)、外の暗闇に追い出します(30節)。

 忠実な僕と怠惰な僕の違いは、主人に委ねられたものに態度であり、それは、主人に対する信頼の違いといってもよいのでしょう。怠惰な者は、主人を信頼するより恐れていて、主人から委ねられたものを活かして用いることが出来ませんでした。

 私たちの命、私たちの人生は、主から預けられたものです。私たちが自分の好き勝手に出来るものではありません。自分の人生という主から委ねられているものをどのように受け止めているのか、どう活かしているのかが問われます。人生を精算するとき、「忠実なよい僕だ。よくやった」と言われたいものです。

 そのために、主に信頼して日々御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、エルサレムの民には、エレミヤの言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、民と、信仰によって結び付かなかったためです。あなたの憐れみによって、主を信じ、キリストの教会に連なることを許された私たちが、キリストから離れることがないように、絶えず御言葉をお与えください。御霊の導きに与り、忠実な僕とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン