「イスラエルの神はこういわれる。これらの証書、即ち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。」 エレミヤ書32章14節

 1節に、「ユダの王ゼデキヤの第十年、ネブカドレツァルの第十八年のこと」とあるのは、紀元前587年のことです。39章1,2節(列王記下25章1節以下も参照)によれば、バビロン軍はその前年に押し寄せてエルサレムを攻撃していたので、いよいよ陥落させられる直前という状況です。

 そのとき、「預言者エレミヤは、ユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されて」(2節)いました。それは、バビロン軍に都が包囲されている中、エレミヤがエルサレムの民の士気をくじくような言動が出来ないよう、そしてまた、敵国バビロンへ投降することが出来ないようにするということでしょう(37章参照)。

 ただ、その拘留は緩やかなものだったらしく、叔父シャルムの子ハナムエルの面会が許されただけでなく、ハナムエルの求めに応じて、アナトトの畑を銀17シェケルで買い取り、その証書をネリヤの子バルクに預けることも出来ました。

 1シェケルは銀11.4グラムで、17シェケルは193.8グラム。現在の銀価格は、1グラム65円前後ですから、銀17シェケルは12,600円程度という安価。2600年前のイスラエルでは、銀の価値はもっと高かったのでしょうね。

 拘留されているエレミヤのもとにハナムエルがやって来たのは、エレミヤが、土地を買い戻す義務を負うべき、最も近い親戚だったからでしょう(レビ記25章25節以下参照)。ハナムエルが嗣業の畑を売ることにしたのは、バビロンに占領されるのを恐れ、国外へ逃亡するための資金を得たかったのかも知れません。

 しかし、エレミヤがその土地を購入することにした理由は、主がハナムエルの来訪について、予めエレミヤに告げられ(6,7節)、御言葉どおりハナムエルがやって来たことです(8節)。つまり、ハナムエルの求めに応ずることが、主の御心であるとエレミヤは信じたのです(9節以下)。

 そこでエレミヤは、封印した購入証書と封印していない写しをネリヤの子バルクに預け(11,12節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、「素焼きの器に納めて長く保存せよ」と命じ、それは、「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取るときが来る』と言われるからだ」(15節)と、その理由を説明しています。即ち、バビロン捕囚の後、国を再建するときが来るということです。

 「長く保存せよ」というのは、バビロンでの奴隷生活が「70年」と言われているからです(25章11節、29章10節など)。 実際には、紀元前587年から538年までの足かけ50年でした。

 エレミヤが、その行為で示したのは、未来の希望でした。それは、ヒゼキヤのときのような、エルサレムを包囲しているバビロン軍を滅ぼし、絶体絶命の危機から救われるという希望ではありません(列王記下19章参照)。エルサレムが焼かれ、イスラエルの国が滅びてしまおうとも、それによって完全に押し潰されることはない、もう一度国を再興することが出来るという希望です。

 イスラエルの父祖ヤコブの寵愛を受けた11番目の息子ヨセフが、兄弟たち、家族が自分の前に跪くという夢を見ました(創世記37章5節以下)。その話を聞いて嫉妬の念に燃えた兄たちは、弟ヨセフを殺してその夢がどうなるか見てやろうと計りますが(同20節)、命まで取るのはよそうという長子ルベンの意見でヨセフを空井戸に投げ込み(同21,24節)、その後、エジプトに奴隷として売られていくことになります(同28節)。

 そこでさらに主人の妻の機嫌を損ね、無実の罪で獄につながれてしまいますが(同39章1節以下、20節)、そこで腐らず、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、彼のすることをすべて上手くはからわれたので(同21,23節)、紆余曲折を経てエジプトの総理大臣に抜擢されることになります(同41章40節)。

 やがて、世界的な飢饉でエジプトに穀物を買いに来たヨセフの兄弟たちは、弟ヨセフが宰相になっているとはつゆ知らず、その前にひれ伏します(同42章6節)。そのとき、ヨセフがかつて見た夢が実現したわけです(同8節)。そこに、神の与えられた夢は必ず実現するということが示されると同時に、その夢が実現したことで、ヤコブ=イスラエル一族が飢饉から守られる役割を果たしたということを見ることが出来ます。

 エレミヤ自身、捕囚となった民が解放され、家、畑、ぶどう園を再び買い取るときが来るという預言の言葉の実現を見ることは出来ませんでした。イスラエルの民が捕囚となったのち、彼はエジプトに連れて行かれ、そこで殉教したと考えられています。しかし、捕囚の民は、エレミヤの預言に希望を置き、その恵みに与ることが許されるのです。

 彼らはエルサレムに帰り、主が彼らの神となり、彼らは主の民となります(38節)。これが、主なる神と民との契約で、40節には、「わたしは、彼らと永遠の契約を結び、彼らの子孫に恵みを与えてやまない」と告げられています。31章31節に述べられた「新しい契約」が、ここでは「永遠の契約」と言われています。

 31章3節で「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」と語られたように、イスラエルとの関係は、その愛と慈しみに支えられて「永遠」に続くのです。そこに、神の愛があります。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ書5章5節)と言われているとおりです。

 とこしえの愛、変わることのない慈しみを注がれた者として、日々主の御言葉に耳を傾け、信仰をもって主の恵みに応えて参りましょう。 

 主よ、御子キリストの贖いにより、恵みによって救いに導かれ、神の栄光に与る希望を感謝しています。信仰の歩みに苦難が伴っても、神の恵みによってそれが希望となることを味わうからです。今、悲しみの中にいる人々に慰め、苦しみの中にいる人々に安らぎ、失望している人々に希望、何よりも信仰による喜びを与えてください。忍耐と慰めの源であり、希望の源、平和の源である神が常に共にいてくださいますように。 アーメン