「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。わたしがお前と共にて救うと、主は言われる。」 エレミヤ書30章10,11節

 30~33章は、未来の希望を告げる預言が集められており、「慰めの書」と呼ばれます。1~3節は、「回復の約束」という見出しがつけられていますが、「慰めの書」の前半部、30,31章の序文と考えられます。ここに、捕囚からの解放が告げられています。

 6節に、「尋ねて、見よ、男が子を産むことは決してない。どうして、わたしは見るのか、男が皆、子を産む女のように、腰に手を当てているのを。だれの顔も土色に変わっている」とあります。男が子を産むことは不可能です。それなのに、なぜ子を産む真似をしようとしているのでしょうか。

 4章31節に、「産みの苦しみのような声が聞こえる。初めて子供を産む女のような苦しみの声が、あえぎながら手を伸べる娘シオンの声が。『ああ、殺そうとする者の前に、わたしは気を失う』」と記されていました。それは、子を生む喜びの呻きではなく、彼らが愛し慕うものによって命が奪われようとする苦しみであり、嘆きの声なのです(同30節)。

 子を産めないはずのイスラエルとユダ、それは、神ならぬものに依り頼んで神の怒りを買い、裁かれることになったからです。7節の、「災いだ、その日は大いなる日、このような日はほかにない。ヤコブの苦しみの時だ」というのはそのことを示しています。

 ところが、最後に、「しかし、ヤコブはここから救い出される」と言います。この言葉で、「子を産むことは決してない」ヤコブでしたが、罪が裁かれ、国滅び、バビロンの捕囚とされた苦しみが、まさに産みの苦しみとなるということです。

 12,13節に、「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。お前の訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない」とあり、その理由が14節後半で、「お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、わたしが敵の攻撃をもってお前を撃ち、過酷に懲らしめたからだ」と言われています。

 14節前半に「愛人たちは皆、お前を忘れ、相手にもしない」という言葉があり、「愛人たち」とは、イスラエルが頼りとしたエジプトなど近隣列強国のことを指していると思われます。しかし、神の怒りの前に、それらは何の役にも立ちません。紀元前588年にエジプトはバビロンと戦って敗れ、その数ヶ月後にエルサレムはバビロンに攻め落とされました。

 あるいはまた、異教の偶像のことを言っているとも考えられます。異教の偶像を慕い、偶像礼拝をやめなかったことが、神を憤らせた原因です。しかし、異教の偶像は、まことの神の裁きの前に、何の助けも与えてはくれません。「お前を忘れ、相手にもしない」とは、そのことでしょう。

 神に捨てられ、人に捨てられて、絶望的な状況がそこにありますが、そうなったときに、「さあ、わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう」と、主なる神が言われます(17節)。ここに、真に畏れるべきは主であり、また真に頼るべきも、主なる神であることが示されます。そのことを、イスラエルの民がこれから経験する苦難を通してしっかりと学ぶならば、まさにその苦難は産みの苦しみになるのです。

 「イスラエル」という名は、彼らの父祖ヤコブが神の使いから、祝福として頂いた名前です(創世記32章29節)。ヤコブは、父イサクが兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、母リベカと一緒になって騙し取りました(同27章1節以下)。それを知った兄エサウが激怒して、「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟を殺してやる」と決意します(同41節)。

 そこで、リベカは嫁娶りを理由に、偏愛する息子ヤコブを自分の故郷ハランの地に逃がします(同42節以下、46節)。かくて、神の祝福を受けるどころか、それが呪いとなったごとくに、ヤコブはひとり家を出て、遠い地まで行かなければならなくなりました。

 ところが、ルズの地で石を枕に野宿していたとき、枕辺に天にまで達する階段が立ち、神の御使いが上り下りしている幻を見ます。そのとき、ヤコブはその階段を上りませんでした。およそ神の前に立つことの出来る心境ではなかったと考えられます。

 畏れ入っているヤコブの傍らに主が立たれ、ヤコブを祝福して、「①見よ、わたしはあなたと共にいる。②あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、③必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われました(同28章10節以下、15節)。ヤコブはそこをベテル(「神の家」の意)と言います。主なる神は、絶望の荒れ野を、栄光の神の家にすることが出来るのです。

 この祝福が、あらためて冒頭の言葉(10,11節)で、「わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと、主は言われる。イスラエルよ、おののくな。③見よ、わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。②彼らを脅かす者はいない。①わたしがお前と共にいて救うと主は言われる」と記されているわけです。ここに、神の真実があります。

 そして主イエスは私たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と約束してくださいました。神が私たちと共におられるというのを、ヘブライ語で「インマヌエル」(同1章23節)と言います。

 十字架の死をもって贖いの業を成し遂げてくださり、罪と死の力を打ち破って甦られ、今も生きて共にいてくださる主に信頼し、「行って、すべての民をわたし(主イエス)の弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(同28章19,20節)と語られた主イエスの宣教命令に、喜びをもって従うものとなりましょう。

 主よ、父祖ヤコブの祝福が世代を超え、また民族の壁を越えて、今日の私たちにも届けられています。絶望の夜を希望の朝に代え、意気消沈の荒れ野を栄光の神の国としてくださる主の御名を賛美し、その恵みを感謝します。常に聖霊に満たされ、主の慈しみの御手のもとに留まり、主の御業に励むことが出来ますように。 アーメン