「そして、ハナンヤは民すべての前で言った。『主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く。』そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」 エレミヤ書28章11節

 1節に、「その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第4年の5月に」とあります。27章1節と同じ年というのですから、紀元前594年、ゼデキヤがバビロンに反旗を翻したときのことです(列王記下24章10節)。

 ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」(2節)と語ります。これは、27章2,11,12節でエレミヤに示された預言を取り上げ、その反対のことを告げるものです。エレミヤはバビロン軍の侵攻を主による裁きと捉え、捕囚に服するよう語りましたが、ハナンヤは、愛国主義的な立場でそれに反対します。

 そして、「2年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである」(3,4節)と告げています。

 けれども、27章16節には、「主の神殿の祭具は今すぐにもバビロンから戻って来る、と預言している預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らは偽りの預言をしているのだ」と語られた主の言葉がありました。その流れから言えば、ハナンヤはここで、偽りの預言をしているということになります。

 しかしながら、ハナンヤも、「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」という語り方をしており、エルサレムの民にとって、エレミヤとハナンヤ、どちらが本当の預言者なのか、外見上は見分けがつけ難いでしょう。エレミヤが軛をつけて、「バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば、命を保つことができる」(27章12節)と語っていましたが、28章で、ハナンヤがエレミヤの首からその軛をはずして打ち砕きました(10節)。

 そして冒頭の言葉(11節)のとおり、あらためて「2年の内に、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く」と語りました。それを聞いた預言者エレミヤは、そこを立ち去ります(11節)。エレミヤのその行動は、そこに居合わせた人々に、ハナンヤがエレミヤに勝った、ハナンヤに言い負かされてエレミヤが退場したという印象を与えたことでしょう。

 なぜエレミヤは、このときハナンヤに、「あなたは偽りの預言をしている」と、はっきり言わなかったのでしょうか。エレミヤの語った言葉とハナンヤの言葉、二人の言葉を聞いた祭司やすべての民は、どちらを歓迎し、どちらの声に耳を傾けたでしょうか。それは言うまでもなく、ハナンヤの言葉でしょう。ですから、歓迎されない言葉を繰り返し告げる空しさを、エレミヤ自身が一番感じていたのかも知れません。

 そして、もう一つ考えるべきポイントがあります。12節に、「預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛をはずして打ち砕いた後に、主の言葉がエレミヤに臨んだ」と記され、13節以下にその預言が記されています。そして15節で、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前をつかわされてはいない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」と糾弾しています。

 何が言いたいのかというと、エレミヤに主の言葉が臨んで、それでハナンヤに語っているのです。ということは、主の言葉が臨まなければ、エレミヤには語る言葉がないわけです。自分の預言がハナンヤに否定されたからといって、あるいは、それによってイスラエルの民がますますエレミヤから離反するようになったからといって、それで、自分を弁護するような言葉を語るわけには行かなかったのです。

 主に聞いて語るエレミヤは、主に逆らって語るハナンヤに、「それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ」(16節)と告げます。そして、そのとおりになりました(17節)。主に逆らって語った者に対する死罪の宣告は29章32節にもあり、申命記13章6節がその判決の根拠となる規定といってよいでしょう。 

 あらためて、ヤコブが語った、「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(ヤコブ書1章19節)という御言葉を思い出しました。この言葉を守れるかと尋ねられて、胸を張って「ハイ」と答えられる人がどのくらいあるでしょうか。私自身には殆ど実行不可能に思われる言葉です。

 けれども、主が私にそう言われたのであれば、「やっても無駄です、答えは見えています」というのではなく、「お言葉ですから、やってみましょう」と言うべきでしょう。わたしの能力の問題ではなく、神の御心が行われることが重要だからです。

 日々主の御前に謙り、聴くべき言葉を聞き、立つべきところに立ち、行くべきところに行き、語るべき子とを語り、なすべきことを行って、主の御心を行うものとならせていただきましょう。。

 主よ、御言葉を聞かせてください。あなたは命のパンであり、それなしに、新しい命を生きることは出来ないからです。聖霊をお与えください。その力を受けずに、主の証人となることが出来ないからです。御心を行わせてください。この地において、主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン