「イスラエルの神、主はこう言われる。このところからカルデヤ人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう。」 エレミヤ書24章5節

 エレミヤが、神殿の前に置かれていた、いちじくの入った二つの籠を見ました(1節)。それは、幻だったのでしょうか。実際に神殿に献げられた供物だったのでしょうか。一つの籠には、「初なりのいちじくのような、非常に良いいちじく」が入っていました。もう一つは、「非常に悪くて食べられないいちじく」でした(2節)。

 悪くて食べられないいちじくは、それが神に献げられた供物であるなら、形だけの、内容の伴わないものということで、それを献げた人の信仰を、神が喜ばれるはずがありません。

 そのとき、冒頭の言葉(5節)のとおり主の声があり、「このところからカルデヤ人の国へ送ったユダの捕囚の民を、わたしはこの良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう」と言われ、続けて、「彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない」(6節)と告げられました。

 さらに、「わたしは、わたしが主であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは真心をもってわたしのもとに帰って来る」(7節)と語られます。

 一方、「ユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムの残りの者でこの国にとどまっている者、エジプトの国に住み着いた者を、非常に悪くて食べられないいちじくのようにする。わたしは彼らを、世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的とする。彼らはわたしが追いやるあらゆるところで、辱めと物笑いの種、嘲りの的となる」(8,9節)  と言われました。

 ゼデキヤ王とエルサレムの残りの者たちを「恐怖と嫌悪の的」、「辱めと物笑いの種、嘲りの的」とするために主は、「わたしは彼らに剣、飢饉、疫病を送って、わたしが彼らと父祖たちに与えた土地から滅ぼし尽くす」(10節)と告げられました。 

 この預言が語られたのは、エコンヤ王(1節、列王記下24章6節以下ではヨヤキン)がバビロンに連行され、ゼデキヤが王として立てられた直後のことではないかと思われます(1節、列王記下24章17節以下)。

 列王記によれば、ヨヤキンもゼデキヤも、「主の目に悪とされることをことごとく行った」(列王記下24章9,19節)とされています。ということは、一方は良いいちじくと言われ、もう一方が悪いいちじくと言われるのは、それが二人の評価ということではあり得ません。

 この良し悪しは、バビロンに連れて行かれた人々と、エルサレムに残り、あるいはエジプトに逃れた人々の、行く末に起こることを言い表しています。

 バビロンに連行された人々は、後にエルサレムに戻ることが許されます(6節)。そして、主を知る心が与えられ、彼らは主の民となり、主が彼らの神となると言われます(7節)。これは、主なる神と彼らとの間に新しい契約が結ばれることを示しています(31章31節以下、出エジプト記19章5,6節参照)。

 一方、エルサレムに残り、あるいはエジプトに逃げた人々は、辱めと物笑いの種、嘲りと呪いの的となり(9節)、剣、飢饉、疫病を送って滅ぼし尽くされます(10節)。

 実際のところ、ゼデキヤ王は傀儡であり、ヨヤキンが捕虜とされていたにも拘わらず、バビロンに反旗を翻したため、剣と飢えに見舞われ(列王記下25章1~3節)、手ひどい仕打ちを受け(同5~7節)、町は破壊され、焼き払われました(同9,10節)。

 それに対してヨヤキンは、捕囚となって37年目に獄から出され、バビロンの王エビル・メロダクによって手厚くもてなされ、王と食事を共にすることになったと、列王記下25章27節以下に報告されています。ヨヤキンがそのようにもてなされることになったということは、彼と共に捕囚とされた人々に対しても、寛大な措置がとられたかも知れません。 

 一方は恵み、一方は呪い、その違いがどこから来たのでしょうか。よく分かりません。神がバビロンに連れて行かれた人々を憐れまれたと答えるほかはないでしょう。

 もしかすると、ゼデキヤ王を初め、エルサレムに残った人々は、バビロンに連行された人々のことを憐れに思っていたかもしれません。エルサレムは神の都で、その神殿に神がおられるので、この町にいればこそ、神の憐れみに与ることが出来ると考えていたかもしれません。また、エジプトに逃れた人々は、そこで力をためて、エジプトやイスラエル周辺諸国と共に、再びバビロンに反旗を翻すときを待とうと考えていたのでしょう。

 しかしながら、主なる神は、神殿の置かれた神の都、エルサレムという場所が、民に恵みを与えるのではないこと、エジプトの力、周辺の国々の結束などが将来の希望につながるものではないことを、イスラエルの民に悟らせられます。

 そもそも、イスラエルがバビロンに降伏し、エコンヤ(=ヨヤキン)が捕囚となったとき、エルサレムの町やその神殿は、何の助けにもなりませんでした。彼らが主の目に悪とされることを行い、主の怒りを買っていたからです。

 ゼデキヤはエジプトや周辺諸国を頼りとして、バビロンに反旗を翻しましたが、結局、町も神殿も、バビロンによって焼かれ、破壊されてしまいます。エジプトに代表される目に見えるものに頼る策は、それが全く信頼に足るものとはならないことを思い知らされる結果となったのです。「呪われよ、人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人は」(17章5節)と言われていたとおりです。

 主なる神は、人々がまことの神を知り、真心をもって主に仕え、主を礼拝することを求めておられるのです。主は今、私たちを良いいちじくのように見なし、恵みを与えてくださいます。主こそ神であることを知り、真心をもって主に仕えましょう。御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。

 主よ、あなたは放蕩息子に、本心に返る導きをお与えになりました。それは、私たちのことでもあります。罪人に過ぎない私たちに恵みを与え、「わが子よ」と呼んでくださいます。その恵みに応え、霊とまことをもってあなたを礼拝する者、その使命に励む者とならせてください。耳が開かれますように。目が開かれますように。心が開かれますように。 アーメン