「むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』。」 エレミヤ書7章23節

 これまで、エレミヤの預言は詩文として記されて来ましたが、7章1節から8章3節まで、散文となっています。ここには、神殿にやって来た人々に対する主の裁きの言葉が語られています(2節以下)。

 その中で22節において、「わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない」と言った後、冒頭の言葉(23節)が語られています。主の御声に聞き従うように命じ、それに従う者には祝福を与えるというのです。

 出エジプト記15章26節に、「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての命令を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」とあります。

 また、同19章5,6節に、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」と記されています。

 さらに、申命記5章32,33節には「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる」と告げられます。

 さらに、同6章3節にも、「イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、父と蜜の流れる土地で大いに増える」と語られています。

 確かに神は、これまでも繰り返し、聞き従うことを命じ、そうすれば幸いを得ると約束しておられます。一方、「焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない」(22節)と言われていますが、レビ記1章以下には、焼き尽くす献げ物やいけにえについて主がモーセに命じられた規定があります。これは、どう考えればよいのでしょうか。

 サムエル記上15章22節に、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあります。

 また、詩編51編19節にも、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と記されています

 ただし、続く20,21節に、「御旨のままにシオンを恵み、エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも、焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に、雄牛がささげられるでしょう」と言われます。

 これを見ると、いけにえは全く必要ないということではありません。ただ、神殿でいけにえを献げてさえいれば、日々の生活はどうでもよいという態度は、完全に間違っているということです。4節の、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という言葉は、そのことを言っています。むしろ神は、日々の生活の中で神に聞き従うことを求められます。

 具体的には、5~6節で「この所でお前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない」と言われていることを、実行することです。

 ところが、イスラエルの民はその戒めを守らず、神に背いた生活を送りながら、主の神殿にやって来て「救われた」と言っているということです(9,10節)。そのことをエレミヤは強烈な皮肉をもって、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える」(11節)と言います。

 主イエスは、十字架におかかりになる前、神殿から商人たち追い出された後、イザヤ書56章7節の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉を引用されながら、「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と、ちょうどエレミヤが語ったように、人々に教えられました。

 神殿を隠れ蓑に悪事を繰り返して、それを神が許されるはずはありません。そこで、エルサレムの神殿を、かつてのシロのようにすると言われるのです(14節)。シロには、ヨシュアの時代に幕屋が建てられ(ヨシュア記18章1節)、サムエル時代初期まではそこで祭儀が行われていました(サムエル記上1章3,24節)。

 しかし、シロの祭司エリの息子らが「ならず者」(ベリアル:「よこしまな者、無価値、破滅」の意)で、いけにえを軽んじ、神を侮りました(同2章12節以下)。その結果、ペリシテとの戦いにイスラエルが敗れ、契約の箱がペリシテに奪われ、エリの子らも死にます(同4章1節以下、10,11節)。報告を受けたエリも息を引き取り(同18節以下)、かくて、幕屋が置かれていたシロの町の使命が終わりました(詩編78編59節以下参照)。

 あらためて、主の言葉に聞き、道と行いを正すとは(2,3節)、主イエスが最も重要な掟として語られた、すべてを尽くして主なる神を愛すること、また、隣人を自分のように愛することという、愛の関係に生きることといってよいでしょう(マルコ福音書12章29節以下)。

 それは、主イエスご自身が、私たちのための贖いの供え物となって十字架に死んでくださったからであり、全身全霊をもって私たちを愛してくださっているからです。この愛に応えて生きることが求められているのです。

 主よ、互いに愛し合って生きよとは、2000年前に命じられた古い掟です。しかしながら、改めて新しい掟として聞きます。それこそ、主が求めておられることだからです。絶えず御言葉の光のうちを歩み、幸いを得ることが出来ますように。 アーメン