「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『わたしたちの贖い主』、これは永遠の昔からあなたの御名です。」 イザヤ書63章16節

 イスラエルの民は、第二イザヤが預言していたとおり(40~55章)、紀元前538年に捕囚から解放され、帰国を果たすことが出来ました。けれども、イスラエルの民の生活は、貧しく厳しいものだったので、次第に明るい希望を見失っていきました。

 11節で「そのとき、主の民は思い起こした、昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか、その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか、聖なる霊を彼のうちにおかれた方は」というのは、かつてエジプトの奴隷の苦しみから解放された主なる神に呼びかけ、荒れ野を約束の地へと導いてくれたモーセのような指導者を、イスラエルの民の上にもう一度立てて欲しいという願いが語られているようです。

 というのも、帰国後直ぐに神殿再建に取りかかりましたが、神殿再建を妨害する内外の敵の存在に加え(エズラ記4章参照)、干魃による飢饉などで生活自体がままならず(ハガイ書1章参照)、再建工事中断のやむなきに至ったからです。

 ネヘミヤ記1章3節に「城壁は破れ果て、城門は焼き払われたまま」という言葉があります。これは、ペルシア王アルタシャスタの治世第20年、即ち紀元前444年頃のことですが、バビロンによって破壊されたままというより(列王記下25章10節)、エズラ時代の神殿再建妨害時に再び破壊されたとする解釈もあります(エズラ記4章23節参照)。いずれにせよ、城壁、城門の破れを修復することが出来ずにいたわけです。

 そこで、「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮からご覧ください」と求めます(15節)。「輝かしく聖なる宮」とは、天の王宮のことです。エルサレムの神殿は未だ再建中で、完成を見ることが出来ていません。「間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています」(18,19節)と語られているからです。

 「天から見下ろし」、「聖なる宮からご覧ください」と求めているのは、神に見捨てられているように、さらに、忘れ去られてしまったとさえ感じているからではないでしょうか。だから、「どこにあるのですか。あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは抑えられていて、わたしに示されません」(15節)というのです。

 そのように求める根拠が、冒頭の言葉(16節)に示されます。預言者は、神を「父」と呼びます。「アブラハムがわたしたちを見知らず、イスラエルがわたしたちを認めなくても」とは、イスラエルの父祖アブラハムに与えられた祝福の約束が忘れられ、見捨てられたように思えるということです。しかし、そこでなお、父なる神の憐れみを求めて祈るのです。

 また、「贖い主」(ゴーエール)とは、レビ記25章などで「買い戻す義務を持つ親戚」と訳されている言葉です。貧しくなって身売りした者を買い戻すのは、兄弟や叔父、従姉妹など、近親者の務めです(レビ25章48,49節、ルツ記2章20節、4章3節以下参照)。預言者は、神が近親者、その中でも、父祖アブラハムに優る「父」として、イスラエルの民を苦しい生活から贖い出してくださるように求めているわけです。

 それにしても、「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、わたしたちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにさせるのですか」(17節)とは、よく言ったものです。天地万物の創造者であられる神は、彼らが罪を犯すのも、そうしないように守るのも、神の神の御業だというわけです。

 それを、自分たちから目を離し、その存在を忘れたかのような扱いをしたから、こうなったと、自分たちの罪を神になすりつけ、苦しみを味わっている責任を、神に転嫁しているとしか思えない言いようですね。勿論、それだから、自分たちがその罪の報いを受けることはないと考えているわけではありませんでした。

 そもそも、7節で「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を」と言っていました。「慈しみ」(ヘセド)も「栄誉」(テヒラー:「賛美」の意)も複数形で、何度も何度も神の恵みを受けたことを心に留めるということです。ということは、これまで、恩知らずにも、それを忘れていたということでしょう。そのことが、10節の「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた」というところに明示されています。

 そこで、「立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(17節)と求め、「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(19節)と願っています。

 そして、主は「贖い主」として、自分たちの苦しみに目を留め、そこから贖い出してくれるように、そのために、天を裂いてくだっておいでくださるようにという祈りに応えてくださいました。神の独り子が私たちの罪を背負い、十字架に死んで、贖いの御業を完成せいてくださったのです。それゆえ、私たちは罪赦され、神の子として生きる恵みに与りました。

 主イエスが十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、息を引き取られたのは(マルコ15章34,37節)、罪のない神の御子が私たち全人類のすべての罪を御自分の身に引き受けて、贖いの死を遂げてくださったしるしです(2コリント5章21節、1ペトロ2章22節以下)。

 常に贖い主なる主イエスを仰ぎ、その恵みに感謝しましょう。御言葉に耳を傾け、信仰に固く立たせていただきましょう。

 主よ、あなたの豊かな愛と憐れみのゆえに感謝します。これまで受けてきた数々の恵みの御業を心に留め、常に主を喜び、主に喜ばれる歩みが出来ますように。絶えず御言葉に耳を傾け、感謝をもって御心を行うものとなることが出来ますように。 アーメン