「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」 イザヤ書60章1節

 60~62章は、第三イザヤと呼ばれる預言(56~66章)の中心的な部分を構成していると言われます。60章は、前章20節の、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると、主は言われる」という言葉に導かれるかたちで、語り出されています。

 捕囚からエルサレムに帰還を果たしたイスラエルの民は、ペルシア王キュロスによる解放が、第二イザヤが告げていた預言を直ちに完成するものではないということを、思い知らされていました。それは、帰国の一年後に始められた神殿再建の働きが(エズラ記3章8節以下)、中断を余儀なくされてしまうからです(同4章)。

 神殿再建もままならず、経済的にも大変厳しい状況の中で、主の手は短い、主の耳は鈍い(59章1節参照)、私たちの断食は顧みられない(58章3節)という不満の思いが、イスラエルの民の間に蔓延していたのです。

 それに対して本章は、第二イザヤのメッセージを語り直し、強調するものとなっています。たとえば、4節の、「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る」は、49章18節で、「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る」と告げられていました。

 また、16節後半の、「こうして、あなたは知るようになる。主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者、ヤコブの力ある者であることを」も、49章26節で、「すべて肉なる者は知るようになる。わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う、ヤコブの力ある者であることを」と語られていたものです。

 その救いの到来を、闇の中に現われる光として語っているのが、冒頭の言葉(1節)と2節です。「闇」(ホーシェク)、「暗黒」(アラーフェル)は、無知や罪、不幸、破壊などを象徴する言葉です。

 闇の中に現われる光というイメージは、9章1節の「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」、42章16節の「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする」にもあります。イザヤが一貫して語り継いでいるメッセージということが出来るでしょう。ただ、9章では、その栄光は異邦人のガリラヤに輝くとされていますが(8章23節)、ここでは、シオン、エルサレムを巡り照らしています。

 「起きよ」(クーミー)は、打ちひしがれ、うずくまっている人々が栄光の主に向かって目を上げ、立ち上がるよう促し、「光を放て」(オーリー)は、栄光に包まれている姿を人々に見せなさいということでしょう。主イエスが、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか(マルコ4章21節)と語られた言葉を思い起こさせる表現です。

 しかし、どうしてうずくまっている人が立ち上がり、その栄光を現すことが出来るのでしょうか。そういう希望も喜びもないので、うずくまっているのではないでしょうか。

 「光を放つ」ことの出来る根拠は、彼らのうちにあるのではありません。原典には、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」の前に、「キー」という単語があります。「キー」は、「なぜならば(because)」と訳される、理由や根拠を示す接続語です。「昇る」と訳されている言葉(ボー:「来る、行く」の意)も、「輝く」という言葉(ザーラー:「太陽が昇る、照り輝く」の意)も、完了形が用いられています。

 つまり、既にあなたの光はやって来た、既に主の栄光があなたを照らしているということです。それだから、立ち上がって、その輝かしい栄光に包まれたあなたの姿を、私たちに見せなさいというのです。光と栄光の組み合わせは、58章8節にもありました。第三イザヤのキーワードといってよいでしょう。

 ただ、この預言は、直ちに実現したとは言い難いものです。イスラエルは、この後もペルシアの支配下に置かれ、次はギリシア、続いてシリア、それからローマの支配を受けることになります。1947年の国連決議(パレスティナ分割統治)に基づき、翌年、イスラエル国家が独立、誕生しますが、主の栄光とはほど遠い有様です。

 しかし、確かに主の栄光がエルサレムに訪れました。神の御子イエス・キリストの到来です。6節に、「ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」とありますが、黄金、乳香、没薬を携えた占星術の学者たちが東の方かららくだに乗って、乳飲み子の主イエスの下にやって来ました(マタイ2章1節以下、11節)。

 ヨハネも1章のロゴス賛歌の中で、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1章14節)と記しています。

 主イエスを通して、主の栄光が私たちの上に輝いているのです。「起きよ、光を放て」と、私たちにも命じられているのです。

 主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちはあなたの栄光に包まれています。聖霊の力を受けて立ち上がらせてください。世の光として、主の栄光を輝かせてください。多くの人々が主イエスへと集まり、その恵みと真理に与りますように。 アーメン