「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」 イザヤ書58章6,7節

 1節に、「喉をからして叫べ、黙すな、声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを、ヤコブの家に、その罪を告げよ」と言われます。「喉をからして叫べ」と言われるのは、国中にその声を響かせよということと、民が神に立ち帰るよう繰り返し叫ぶことが要求されているわけです。それは、民が預言者の声に素直に耳を傾ける状況ではないということではないでしょうか。

 イスラエルの民の「背き」とは、3節で、民が神に向かって、「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」と不満を述べたことで明らかにされたものです。自分の振る舞いを自ら義とし、神がそれを認めるようにと要求しているわけです。

 断食は、一年に一度、7月10日の贖罪日、神の裁きを心に留め、悔い改める日に行うよう定められました(レビ記16章、23章27節以下参照、ここに「苦行」と記されているのが、断食のことです)。やがてこれに、エルサレムの陥落を悲しむ日や神殿の破壊を憶える日、総督ゲダルヤの死を悼む日などが加わって、年に4回、断食日が設けられることになりました(列王記下25章参照)。

 ゼカリヤ書7章5節に、「五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか」という主の嘆きの言葉があります。繰り返される苦行、断食が、真に神を礼拝するためではなく、人々が自分の考え、自分たちのやり方で儀式を行い、願い事をして、それで神を礼拝し、断食したつもりになっているというのです。

 バビロン捕囚からの解放後、終末の到来への期待が起こり、苦難から解放される終末を熱望する気運が高まりました。それなのに、自分たちの期待する終末が訪れません。神はどうして期待に応えてくださらないのかという深刻な問いがそこにあったと思われます。エルサレムに戻って来た民の生活は以前苦しく、都の再建もままならないという状況が続いていたのです。

 それで、断食して主の到来を求めているのに、その労苦に目を留められないのは何故なのかというわけです。その答えを求めて苦行する機会が増え、なかなか答えが与えられないので、ますます熱心に断食が行われるようになったといってもよいでしょう。

 それに対して、冒頭の言葉(6,7節)が語られています。神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そうでなければ、1節以下にいわれる罪の宣告を受けます。冒頭の言葉に対する対応が、祝福と呪いの分水嶺ということです。

 「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(6,7節)、それが神の選ばれる断食だというのは、「ヤコブの家」(1節)、イスラエルの民が神の望まれる正義と公正の実現を切望することだと示されます。 

 これは、マタイ25章31節以下の、主イエスが最後の審判者としておいでになり、すべての民を、祝福に与る人と、呪いを受ける人に分けられるという記事を思い起こさせます。主イエスは、弱い人、助けを必要としている人への対応が、御自分に対する対応であること(40,45節)、祝福される者は、主に対してよい対応をしたとは考えておらず(同37節以下)、一方、呪われる者は、したつもりでいる(同41節以下)と語られました。

 神の喜ばれる断食を行うなら、8節以下の祝福に与ります。そのことについて、8節では、「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る」と記され、11節では、「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」と約束されます。

 光と水は、人が生きていく上で、欠かすことの出来ないものです。そして、ただその必要なものが与えられるというだけではなく、「あなたの光は曙のように射し出で」(8節)、「あなたは潤された園、水の涸れない泉」(11節)といわれるように、どの人から溢れ出て、隣人にその恵みを広げる祝福の源となるのです(創世記12章2,3節参照)。

 日々主を尋ね求め、主の道を知ろうと望みましょう。恵みの業(正義:ツェダカー)を行い、神の裁き(公正:ミシュパート)を捨てない民として、主の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望みましょう(2節)。 

 主よ、私たちの内を御言葉の光で照らしてください。御言葉に癒しがあり、命があるからです。私たちに語りかけれらる御言葉を通して御心をわきまえ、神の望まれる業を行うものとならせてください。キリストを心の中心にお迎えします。聖霊の力を受け、主の福音を語り伝えさせてください。命の水が私たちの腹から川となって流れ出ますように。 アーメン