「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」 イザヤ書42章1節

 バビロン捕囚期に記されたと考えられる、第二イザヤ(40~55章)といわれる預言の中に、「主の僕の歌」と呼ばれる歌が4つあり(42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、52章13節~53章12節)、42章は、この「主の僕の歌」で始まっています。

 ここに語られている「主の僕」とは、誰のことでしょうか。それは第一に、イスラエルの民のことでしょう。41章8節に既に、「わたしの僕イスラエルよ、わたしの選んだヤコブよ」と語られていました。

 また41章2節で、「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちに従わせたのは誰か」と言い、同25節で、「わたしは北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところからわたしの名を呼ぶ」と語られていて、このように神に奮い立たされたのは、その内容から、ペルシア王キュロスのことだろうと思われます。そこで、主の僕とは、キュロス王のことを指していると考えることも出来ます。

 44章28節の「キュロスに受かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う」という言葉や、45章1節の「主が油を注がれた人キュロスについて」、同4節の「わたしの僕ヤコブのために、わたしの選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼び、称号を与えた」などという言葉も、この解釈を支持するものでしょう。

 あるいは、「見よ」と言われている相手のことを考えると、40章1~9節と同様、それは天上の会議に列席している御使いたちでしょう。ということは、神が御使いたちに語りかけ、「見よ、わたしの僕」といって指し示されたのは、預言者イザヤのことだろうと考えられます。「彼の上にわたしの霊は置かれ」(1節)という言葉も、相手が預言者としての働きをなす者であることを想像させます。 

 さらに、「主の僕の歌」に歌われている主の僕とは、メシア、救い主のことを語っていると解釈することも出来ます。キリスト教会は、伝統的に、この解釈を採用して来ました。それは特に、4番目の「主の僕の歌」(52章13節~53章12節)が、主の僕の苦難と死を語っていて、それが、主イエス・キリストの受難を予告していると考えられたからです。

 冒頭の言葉(1節)で、「わたしが選び、喜び迎える者」は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音書3章17節)という言葉を思い起こしますし、「彼の上にわたしの霊は置かれ」は、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(マタイ3章16節)という言葉を思い出します。

 また、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」(2節)とは、「イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」(マタイ12章15,16節)という言葉を思わせます。

 そして、マタイ12章17節に、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と記されて、冒頭の言葉を含む「主の僕の歌」(1~4節)を引用しています。マタイ福音書の著者は、イザヤが歌っている「主の僕」とは、実に主イエスのことである、と解釈した初代のキリスト者であるわけです。

 「主の僕」は、「民の契約、諸国の光として」形づくられました(6節)。人が「民の契約」として形作られたというのは、とても珍しい表現ですが、キリストが血を流されたことによって、すべての民と神との間に「契約」が結ばれるという預言と考えればよいでしょう。「諸国の光」とは、「見ることの出来ない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すため」(7節)です。

 主イエスが、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と教えられたとき(マタイ20章26,27節)、その例証として御自分を引き合いに出して、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました(同28節)。

 「主の僕」なる主イエスは、真の神であられましたが、遣わされて人の僕となられ(フィリピ書2章6,7節)、多くの人の身代金として、御自分の命を献げられ(マルコ10章45節、第一コリント7章23節)、その贖いの代価によって私たちは縛られていた罪の牢獄から、死の恐れの縄目から解放されたのです。

 そしてペトロは、「あなたがたが召されたのこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と記しています(第一ペトロ書2章21節)。「足跡に続く」とは、主イエスが歩まれた足跡に自分の足を乗せて、主イエスが歩まれたとおりに歩むことを指します。

 それが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスが言われていたことなのです(ルカ福音書9章23節)。

 主イエスに従う主の僕として、常に目を開いて十字架の主に目を注ぎ、耳を開いて主の御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みましょう。委ねられている主の業に励む者とならせていただきましょう。 

 主よ、御子キリストの命の恵みに与り、罪と死の縄目から解放していただきました。主に倣い、仕えられるより仕えることを喜びとし、主に喜ばれる道を主と共に歩ませてください。御旨をわきまえ、御業に励む者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン