「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる。」 イザヤ書33章22節

 1節に、「災いだ、略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者は」とあります。冒頭の「災いだ」(ホーイ)という言葉は、旧約聖書中に51回用いられていますが、列王記下13章30節で、老預言者の言葉として語られる以外は、すべて預言書で用いられています。

 28章から本章までに6回(28章1節、29章1,15節、30章1節、31章1節、33章1節)、「ホーイ」で始まる段落があり、意図的にここに配置されたかのようです。これは、「ああ」という慨嘆の言葉(間投詞)ですが、単に不幸だというようなことではなく、むしろ、「呪われよ」という意味の、神の裁きを示す言葉遣いではないでしょうか。

 これまで、イスラエルに対して「災いだ」と語られて来ましたが、本章でその対象が、イスラエルの敵に代わります。「略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者」とは、ヒゼキヤの代にエルサレムの都に攻め寄せたアッシリアのことを言っているようです。岩波訳は1節以下の段落に、「アッシリアへの処罰」という小見出しを付けています。

 ヒゼキヤ王の治世第14年(紀元前701年)にアッシリア王センナケリブが南ユダに大軍を送り込み、町々をことごとく撃破し(列王記下18章13節)、エルサレムに迫ります。9節で、「レバノンは辱められて、枯れ、シャロンは荒れ地となり、バシャンとカルメルは裸になる」というのは、アッシリアによって、善きものがすべて奪われてしまったという表現でしょう。

 それを見たヒゼキヤはアッシリアに使者を遣わし、朝貢を条件に和睦を申し入れると、センナケリブは、その条件を提示しました(同14節)。そこでヒゼキヤは条件通りに貢ぎを贈りました(同15,16節)。それで、問題が解決されるはずでした。

 ところが、貢ぎを受け取ったアッシリアの王センナケリブは、ヒゼキヤを欺いて大軍でエルサレムを包囲し、エルサレムの都の無条件降伏を迫りました(同17節以下)。だから、「略奪されもしないのに、略奪し、欺かれもしないのに、欺く者」(1節)と言われるのです。

 それに対してヒゼキヤは、「主よ、我らを憐れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」(2節)と、祈りの手を上げます。自分たちの力ではアッシリアに対抗することは出来ず、大群に取り囲まれて万策尽きたという状況で、しかしながら、イスラエルには、なお頼るべきお方があるということを示しています。

 そして、まさに「苦しいときの神頼み」というかたちの祈りであるにも拘わらず、主は耳を傾け、応えてくださいます。10節に、「今や、わたしは身を起こすと主は言われる。今や、わたしは立ち上がり、今や、自らを高くする」と言われるとおりです。そして、主は焼き尽す火となられ、イスラエルを苦しめる者を焼き尽されるのです(11,12節)。

 列王記下19章1節以下、ヒゼキヤがイザヤに執り成しを願い、主なる神は、クシュの王が戦いを交えようと軍を進めているという噂をアッシリアの王に聞かせます(同7,9節(。アッシリアの王は、クシュとの戦いに備えるため、すぐにイスラエルを全面降伏させようと、さらに脅迫します(同10節以下)。

 それを受けて、ヒゼキヤは生ける神である主に救いを求めて祈りました(同15節以下)。絶体絶命の危機において、ヒゼキヤの信仰が研ぎ澄まされたようです。主はその願いに応え、主の御使いを送って、アッシリア18万5千の大軍を一夜にして全滅させられました(同35節)。

 17節以下は、この一連の災いの預言のまとめの部分です。ここに描かれるのは、終わりの日の都エルサレムの様子です。「安らかな住まい、移されることのない天幕。その杭は永遠に抜かれることなく、一本の綱も断たれることはない」(20節)と、神の幕屋が永遠に固く据えられています。

 そこには、多くの川、幅広い流れがあると言われます(21節)。エゼキエル書47章の、神殿の敷居の下から湧き上がった命の水の豊かな流れや、黙示録22章の都の大通りの中央を流れる命の水の川を思わせます。詩編の記者が、「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。いと高き神のいます聖所に」と詠っています(詩編46編5節)。

 「魯をこぐ舟はそこを通らず、威容を誇る船もそこを過ぎることはない」(21節)と言われます、「魯をこぐ舟」、「威容を誇る船」とは、ローマのガレー船のような戦艦を思わせるもので、イスラエルに対して横暴に振る舞ったアッシリアのような大国を示しているようです。しかし、人々に安らぎを与える命の水の川は、そのようなものが通る場所ではないというのです。

 そして冒頭の言葉(22節)のとおり、「まことに、主は我らを正しく裁かれる方、主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる」と言われます。かつて、イスラエルの民は、不信仰、不従順によって神の怒りを招き、国の滅亡と捕囚という災いを味わわなければなりませんでした。

 しかるに神は、イスラエルに憐れみの御手を伸べられ、神の霊を遣わして、新しい神の民を創造されるのです。主なる神ご自身がその国の王となられます。もはや、大国の横暴に怯えることも、重税に苦しめられることもありません。神が正義と公正をもって統治される国には、いたるところ真理と慈しみが満ちています。

 主を心の王座にお迎えし、恵みに与らせて頂くため、すべてを主の御手に明け渡し、十字架の血潮によって洗い清めて頂きましょう。

 主よ、あなたの豊かな栄光に従い、霊により私たちの内なる人を強め、信仰をもって心の内にキリストを住まわせ、私たちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者として下さるように。キリストの愛の広さ,長さ,高さ,深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知り、ついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように。 アーメン