「ついに、我々の上に、霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。」 イザヤ書32章15節

 1節の「見よ、正義によって一人の王が統治し」という言葉は、かつて、メシアの到来を指しているという解釈がありましたが、後半の「高官たちは、公平をもって支配する」という言葉から、正義(ツェデク)と公平(ミシュパート)をもって政治を行うのが、理想的な指導者であるという表現だと考えられるようになりました。

 「一人の王が統治する」というのは、あるいは具体的な人物を考えているのかもしれません。イザヤが存命中ということであれば、それは、ヒゼキヤ王のことではないかと思われます。また、イザヤの死後に登場して来るヨシヤ王を指すという解釈もあります。

 ただ、ヒゼキヤもヨシヤも、所謂、理想的な王、メシアのような王ではありませんでした。ヒゼキヤはアッシリアと対抗するためにエジプトと結んだこと(30,31章)、また、晩年はバビロンと通じたことでイザヤの批判を受けています(列王記下20章12節以下、16~18節)。

 ヨシヤ王は、徹底的な宗教改革を行った結果、祝福を受けて国力を回復します。ところが、それが奢りとなったのか、バビロンと戦うアッシリアを支援しようとカルケミシュに向けて出陣したエジプト軍に対し、メギドで無用の戦いを仕掛けて、残念なことに、ヨシヤはそこで戦死してしまいました(歴代誌下35章20節以下、22,24節)。

 その後、ユダはエジプトの支配下に置かれ(歴下36章1節以下)、次にバビロンの支配下に移されます(同6節以下)。9節以下に、「憂いなき女たち」に対する預言がありますが、これは、14節の「宮殿は捨てられ」という言葉から、エルサレムに住む人々を指していることが分かります。

 1年余りぶどうの収穫がないこと(10節)、美しい畑が茨といらくさに覆われるということ(13節)で、都が荒れ果てたままになることが描かれ、それを14節で具体的に、「宮殿は捨てられ、町のにぎわいはうせ、見張りの塔のある砦の丘は、とこしえに裸の山となり」と語っています。ヨシヤ王の死後、南ユダは力を失い、急速に滅びの坂を転がり落ちてしまうのです。

 イザヤは恐らく、これをヨシヤ王の後のこととしてではなく、神に信頼するのではなく、エジプト、即ち人の力に頼ろうとしたヒゼキヤ王のときに起こることとして、ここに預言しているものと思われます。

 ところが、冒頭の言葉(15節)のとおり、「ついに、我々の上に、霊が天から注がれる」という言葉が突然語り出され、ここに、最後に神の霊の賜物が注ぎ与えられること、それによってイスラエルの運命の転換がなされることが示されます。それは上から、つまり、イスラエルに神の救いが与えられるのが、神の御心だということです。

 エルサレムの都が神に捨てられ、荒れ廃れるという苦しみを味わった後、神の霊が降ってきて、ここに新しい命が注ぎ込まれます。霊は、生命を与える神の力です。この霊の力で、「荒れ野は園となり、園は森と見なされ」るようになります。

 それは、復興というよりも、再創造といってよいでしょう(詩編104編29,30節参照)。そこには、霊の力により、正義と公平が宿ります(16節)。それは1節で、イスラエルの指導者のあるべき姿として示されていたものです。

 正義と公平によって、平和が造り出され、安らかな信頼が生み出されると言います(17節)。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)と預言されていましたが、神は、上より神の霊を注がれ、その預言を自ら実現してくださいます。

 それは、かつて人が神に背いて追い出されたエデンの園を、再びイスラエルの民のために創造されたと言えばよいのでしょう。そこでは、人が神を心から信頼し、人と人との間に、人と自然の間に、真の平和があるのです。

 このことは、ヨエル書3章の預言に通じています。そして、新約の時代、ペンテコステの日に聖霊が使徒たちの上に降り、彼らが大胆に福音を語り出して、3000人もの人々が信仰に入りましたが(使徒言行録2章1節以下4,41節)、ペトロはその説教の中でヨエル書の預言を引用しながら、ペンテコステの日に起こったのは、ヨエルの預言の成就であると語りました(同16節以下)。

 この聖霊の力により、血筋、民族によらず、信仰によって、あらゆる国民が神の民となる道が開かれたのです。我が国にも、天から霊が注がれ、荒れ野が園に、園が森と見なされるような神の恵みに満たされるときが到来するよう、祈ります。

 主よ、どうか私たちに、日本全国の教会の上に、聖霊を注いでください。主イエスを信じる者ひとりひとりが、十字架の主イエスを仰ぎ、その血潮によって清められ、聖霊に満たされて、御言葉に生き、力強く福音を証しすることが出来ますように。 アーメン