「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。」 イザヤ書31章3節

 「災いだ」(ホーイ:間投詞・悲嘆の声「ああ!」)という言葉が1節冒頭にあります。これは、イザヤ書中に21回(第一イザヤに18回)用いられており、神の御心に背く者たちへの裁きが告げられることを示しています。そして、この言葉はここで、「助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者」と言われる南ユダの王ヒゼキヤに向けられています。

 この背景は、18~20章で学んだように、エチオピアの王シャバコがエジプトを征服してファラオになったとき、ヒゼキヤがパレスティナ諸国と共にエジプトに助力を依頼し、アッシリアに反旗を翻したことにあります。「馬を支えとする」とは、馬が戦車や騎兵など戦争に用いられるもので、エジプトの軍事力に頼ることを言います。

 もしも、列王記下18章6節に記されているとおり、「彼(ヒゼキヤ)は主を堅く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」ということであれば、ここでイザヤから「災いだ」と言われることはなかったでしょう。

 確かにヒゼキヤは、主を信じ、その御言葉を行うことに意を用いた善い王だったかも知れません。ですから、ペリシテなどとは違い、イザヤの指導もあって、エジプトとの同盟に積極的に参加してはいなかったのかも知れません。

 けれどもイザヤは、「助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとしている」とヒゼキヤを批判し、それは、「イスラエルの聖なる方を仰がず、主を尋ね求めようとしない」(1節)ことだと断じています。2節の「災いをもたらす者の家」、「悪を行う者」とはいずれもイスラエルのことで、「災いをもたらす」、「悪を行う」とは、神に聞き従おうとしないこと、所謂、不信仰な振る舞いをしているということです。

 2節の初めに、「しかし、主は知恵に富む方」と記されています。これは、ヒゼキヤらがエジプトに助力を頼むことを、知恵ある振る舞いと考えていることを予想させ、そのことに対する批判が込められているといってよいでしょう。

 冒頭の言葉(3節)のとおり、「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものにすぎず、霊ではない。主が御手を伸ばされると、助けを与える者はつまずき、助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる」と言い、エジプトに頼ることが、むしろ愚かな選択であることを示します。

 これはしかし、ひとりヒゼキヤだけの問題ではありません。エジプト人が神でないこと、馬が霊でないことは、百も承知です。けれども、神が霊であるということは、不信仰な者にとってそれは、目には見えず、手で触れることも出来ない不確かなものという表現であり、それは、無きに等しいものということにさえなります。

 パウロが、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント書4章18節)と言っていますが、私たちもそのように宣言することが出来るでしょうか。実際、見えないものに目を注ぐというのは、言うほど容易いことではありません。どうしても、見えるところに左右され、状況に振り回されてしまいます。

 「霊」(ルーアッハ)は「息、風」とも訳されます。神が人を造られたとき、御自分の命の息を吹き入れて、人は生きる者となりました(創世記2章7節)。ですから、霊は命を与えるもので、その命を受けなければ、肉なるものは生きることが出来ません。つまり、人や馬、すべての生物は、創造主なる神なしには存在し得ないといっているわけです。

 目に見えない神に頼るよりも、見える人間の力を頼りとする方がよいということであるならば、神の助けを期待することは出来ません。むしろ、「主が御手を伸ばされると、助けを与える者(エジプト)はつまずき、助けを受けている者(イスラエル)は倒れ、皆共に滅びる」(3節後半)という結果を招いてしまいます。

 エジプトの軍勢がアッシリアに撃破されて、ヒゼキヤはエジプトの助力を得られずにエルサレムに閉じ込められ、ユダの各地の要塞が次々と陥落し、ついに降伏を余儀なくされました。それが、列王記下18章13,14節に記されているところです。 

 真に恐るべきは、万物の創造主であり、審判者であられる神です。もしも、信仰の目が開かれたなら、大漁の奇跡を見て主イエスの神性に接したペトロが、自分の罪深さを示されて、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5章8節)と語ったように、私たちも、神の前に立つことの出来ない者であることを悟るでしょう。

 けれども、その悟りを得たペトロに主イエスは、「恐れることはない」と言われ、そして、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と、その使命を授けられました(同10節)。主イエスをまことの神として認め、畏れること、そこから主の僕としての使命が始まるということです。

 神の慈しみと厳しさを考えましょう(ローマ書11章22節)。主の慈しみの御手のもとに留まりましょう。御言葉に聴き従いましょう。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。

 主よ、私たちに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来ますように。心の目を開き、神の招きによってどのような希望が与えられているか、私たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、そしてまた、私たちに対して絶大な働きをなさる神の力がどれほど大きなものであるか、悟らせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン