「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。」 イザヤ書30章21節

 アッシリアの王サルゴンの死を契機に、パレスティナ諸国に独立の気運が高まり、エジプトに使いして助力を依頼します。ユダのヒゼキヤ王もこの同盟に加担し、アッシリアへの朝貢を中止しました。そのことについて、イザヤは「災いだ、背く子らは」と語り(1節)、この同盟が神から出たものでなく、その意味ではイザヤに知らせず、政治的に行われたということを物語っています。

 6節に、「ネゲブの獣についての託宣」とあります。ネゲブはユダ南方の荒れ野です。「ネゲブの獣」という表現で、エジプトとパレスティナを結ぶ場所が人の生存を脅かす獣の住処であることを示しており、それによって、エジプトとの同盟を結ぶため、「富をろばの背に、宝をらくだのこぶに載せて、ほえたける雌獅子や雄獅子、蝮や、飛び回る炎の蛇が住む」(6節)荒地を行くのは危険であり、また無益なことである、というのです。

 これは、エジプトとユダ王国との交流を妨げるために、アッシリアが海沿いの道を封鎖していて、それでシナイ半島を横断するという、あまり使われず、危険の多い南方ルートを選んで密使を送ったということかも知れません。

 イスラエルの神は、エジプトではなく、主ご自身を頼りとするように、「お前たちは、立ち返って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と告げられます(15節)。

 これは、7章4,9節で、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」、「信じなければ、あなたがたは確かにされない」と、ヒゼキヤの父アハズに告げられた言葉を思い起こします。アハズは、神に信頼するよりアッシリアに貢ぎ物を贈り、アラム・エフライム連合軍の攻撃に対しました(列王記下16章5節以下、8節)。

 ヒゼキヤも、イザヤの告げる声に耳を貸そうとせず(15節)、「馬」、「速い馬」を求めます(16節)。それは本来、戦いのためのものです。エジプトの武力を頼みとして、アッシリアに対抗しようとしているわけです。

 しかしながら、ここでは、「逃げよう」と語られて、エジプトとの同盟があてにならず、かえって状況を悪くしてしまう結果になると告げられているわけです。実際、アッシリアの武力の前にエジプト軍も撃破され、ユダの町も次々と占領されました。そのとき、20万もの人々が捕虜としてアッシリアに連行されたそうです。

 「わが主はあなたたちに、災いのパンと苦しみの水を与えられた」(20節)とありますが、これは、エジプトの奴隷から解放されたことを記念する過越の食事を思わせます。そして今、あらためてアッシリア・バビロンという災いと苦しみを味わっていることが示されます。それが、神に信頼せず、人に依り頼んでことの解決を図ろうとした罪の結果でした。

 けれども、神は彼らにただ「災いのパン、苦しみの水」をお与えになったわけではありません。それによって信仰に目覚めさせ、「主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる」(19節)と語られます。その恵みは、霊の目が開かれることで、「あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」(20節)と言われます。

 彼らの耳も開かれて、神が語りかけられる声を聞きます。神は、冒頭の言葉(21節)のとおり、「これが行くべき道だ、ここを歩け、右に行け、左に行け」と指示されます。御言葉どおり主を信じてその道を行くということは、「銀で覆った像と金をはり付けた像を汚」(22節)すこと、即ち、異教の神々に依り頼まないこと、目に見えるもの、人の手で造られたものを捨て去ることです。

 そうすると、主が「地に蒔く種に雨を与えられる」ので、「穀物は豊かに実る」ようになり、「家畜は広い牧場で草をは」む(23節)という祝福に与るのです。「主は恵みを与えようとしてあなたを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は」(18節)と告げられるとおりです。

 主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命なのです。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われ(ヨハネ福音書14章6節)、また、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(同10章10節)と言われました。

 信仰の目が開かれて絶えず十字架の主を仰ぎ、信仰の耳が開かれて常に主の御声に聴き従い、右にも左にも逸れずまっすぐに、真理であり、命であられる主の道を進みましょう。

 主よ、心の目が開かれて、主の御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいますように。あらゆる覆いが取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきますように。主の御声に耳を傾け、御言葉の導きにまっすぐに従うことが出来ますように。 アーメン