「それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブに向かって、こう言われる。『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない』。」 イザヤ書29章22節

 「アリエルよ、アリエルよ、ダビデが陣を張った都よ」と、1節にあります。「アリエル」について、「ダビデが陣を張った都」と言われていることから、エルサレムの都をそのように呼んでいるということになります。何故、エルサレムをアリエルと呼ぶのか、以前にもそのように呼ばれていたのか、よく分かりません。

 この町は、もともとエブス人の町で、シオン(要害)と呼ばれて難攻不落を誇っていましたが、ダビデは周囲に陣を張り(1節)、水汲みのトンネルを通って町に入り、陥落させました(サムエル記下5章6節以下)。

 その後、ダビデはこの町に先ず王宮を建て(同5章11,12節)、続いて、神の幕屋を建てて神の箱を運び上げました(同6章17節)。それから、その子ソロモンがここに壮麗な神殿を建てました(列王記上6章)。ゆえにエルサレムは、神の都と呼ばれました(詩編48編2,6節など)。

 しかるに、今度は、主なる神がエルサレムに向かって陣を張り、この町を攻められます(3節)。2節に、「アリエルには嘆きと、ため息が臨み、祭壇の炉のようになる」と言われています。「祭壇の炉」と訳されているのが、「アリエル」で、供え物を焼いて献げる祭壇を意味します。これは、エルサレムが祭壇で、その住民が神への供え物として焼かれるということでしょうか。

 エルサレムが主なる神によって攻められる理由は、エルサレムの指導者たちが心迷い、目が閉ざされているからです(9節以下)。これは、紀元前701年にアッシリア軍がエルサレムの城壁まで押し寄せてきたときのことを物語っているのかも知れません(列王記下18章13節以下)。

 当時、南ユダのヒゼキヤ王がエジプトと同盟を結び、アッシリアに反旗を翻したのです。このような、神に頼らず人に頼ろうとしている振る舞いを、目が見えず、酒に酔っているようなものと断じているのではないでしょうか。13節で、「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚えこんだからだ」と言っているのは、そのことだと思います。

 しかし、神はエルサレムを顧み、神の御使いを送ってアッシリア軍を打ち、一夜のうちに全滅させられました(同19章35節)。これはイザヤが、「アリエルを群がって攻撃する国はすべて、夢か夜の幻のようになる。彼女を攻撃し、取り囲み、苦しめる者はすべて」と、7節に語っている通りです。

 アッシリア軍の全滅は、列王記の記事に拠れば、それはヒゼキヤの信仰のゆえというようにいうことになりそうですが、むしろアッシリアの王センナケリブとその使者ラブシャケの高ぶりが原因であり、それゆえに南ユダを神が憐れんでくださった結果であると思われます。

 17節以下に、「イスラエルの回復」が述べられます。その日には、聞こえなかった者が書物の言葉すら聞き取り、見えなかった者が見えるようになり、苦しんでいた者が喜び祝い、貧しい人々が喜び躍ると言われます(18,19節)。

 そして冒頭の言葉(22節)に、「アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家に向かって、こう言われる。『もはや、ヤコブは恥を受けることはない。もはや顔が青ざめることもない』」と記されています。「アブラハムを贖われた」とは、アブラハムを御自分のものとされたということです。

 跡継ぎのないまま年を重ねていたアブラハムは、神に「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と語りかけられて、アラム・ナハライムのハランを出立し、約束の地カナンに導かれました(創世記11章27節以下、12章1節以下)。そこに嗣業の地を得、子孫が与えられたのです(同21章、23章)。

 であれば、この預言は、エルサレムが陥落し、国が滅びてバビロンの捕囚となり、幾多の苦しみ、辱めを味わったイスラエルの民が、神の憐れみにより解放されて帰国を果たし、神殿と町を再建してその恥を雪ぐということを示しているのではないでしょうか。イスラエルの民は、その不信仰のゆえに恥を被りましたが、神の憐れみにより、その縄目からの解放に与ることが出来ました。

 憐れみと慈しみに富む主なる神は、私たちにも信仰によって神の子とされる恵みをお与えくださいました。「彼はその子らと共に、民の内にわが手の業を見てわが名を聖とする」(23節)と言われます。「聖とする」(カーダシュ)をギリシア語で「ハギアゾウ」といい、これは、主の祈りで「あがめる」と訳されています。「わが名を聖とする」は、主を崇めるということです。

 恵み深い主に依り頼み、日々その御言葉に耳を傾け、絶えず御霊の導きに従い、喜びと感謝をもって常に真理の道を歩ませて頂きましょう。

 主よ、私は主イエスの十字架と復活に示された主の深い愛と憐れみのゆえに罪赦され、神の子とされました。主イエスは今も生きて、私の心の内に、私と共におられます。その御言葉を慕い求めて、御前に進みます。絶えず、命の言葉をもって養い、真理の道に進ませてください。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン