「月は辱められ、太陽は恥じる。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前に、主の栄光が現されるとき。」 イザヤ書24章23節

 24~27章には、全世界が主なる神に裁かれる、世の終わりを思わせる記述が並んでおり、「イザヤの黙示録」と呼ばれています。24章の前半は旱魃による荒廃、後半(14節以下)は「ノアの洪水」(創世記6章以下参照)を思わせる神の裁きの始まりが記されています。

 そのような神の裁きが臨む理由について、5節に、「地はそこに住む者のゆえに汚された。彼らが律法を犯し、掟を破り、永遠の契約を捨てたからだ」と記されています。

 ここに記される、地を汚す罪について、民数記35章33節において、それは人を殺して大地に血が流れることと示されます。また、エレミヤ書3章1節以下によれば、それは偶像礼拝をするというように告げています。いずれかというより、むしろ、双方の意味が込められていると考えるべきなのでしょう。

 ここに、「永遠の契約」とありますが、イスラエルとの契約ではなく、世界との契約ということでいうなら、創世記9章16節で、「神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める」と、神がノアとその家族に語られたものを指しているということになります。

 ノアとその家族に対して結ばれた「永遠の契約」は、神が一方的に宣言されたもので、特に人間が守るべき条項は何も記されていません。とはいえ、人が神との関係を蔑ろにし、他の神々に心を向けるようなことがあれば、それは、自ら主なる神との契約を捨てる行為ですから、その庇護を受けることが出来なくなります。ゆえに、滅びを刈り取ることになるわけです。

 然るに神は、すべてを滅ぼし尽くすようにはなさらず、わずかな者が残されます(6節)。これも、「ノアの洪水」物語と同じような展開です(創世記6章7,8節)。残された者たちは、声を上げ、主の威光を喜び歌います(14~16節)。実に、箱舟を出たノアとその家族が祭壇を築いて神を礼拝したことに通じるものです(創世記8章20節)。

 ノアの献げ物を受けて神が語られたのは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」(同21節)という言葉でした。「世界の一切の悪と罪を洪水をもって滅ぼしたので、もはや、大地が呪われることはあり得ない。ノアとその子孫は清く正しく生きることが出来る」と言われたのではありません。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」と言われたのです。

 これは、人間が自分の知恵や力、振る舞いで、神の救いを獲得することは出来ない、神の憐れみによらずして、神の救いに到達することの出来る者は独りもいない、ということでしょう。

 残された者たちの賛美を聞いて、イザヤは、「わたしは衰える、わたしは衰える。わたしは災いだ。欺く者が欺き、欺く者の欺きが欺く」と言います(16節)。これも、残された者は、神の救いを必要としないほど清い者などではないということでしょう。神の裁きの前に、「わたしは衰える、わたしは災いだ」と、おのが罪を認めざるを得ないのです。

 「その日が来れば」(21節)、神は天地の悪をことごとく罰し、滅ぼされ(21,22節)、そして、冒頭の言葉(23節)にあるごとく、「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、長老たちの前で栄光を現され」ます。そのとき、「月は辱められ、太陽は恥じる」と言われます。

 太陽が輝いている昼間、街灯をつけても何の意味もありません。月や太陽は、周辺諸国において、異教の神として仰がれるものです。しかしながら、本来、太陽も月も、神に創られたものです(創世記1章14節以下)。天地を創造された万軍の主なる神が、ご自身の栄光をシオンの山、エルサレムで現されるとき、月も太陽も、つまり異教の神々といわれるものは、恥じ入ることになるわけです。

 ヘブライ書13章20,21節に、「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」とあります。

 主イエス・キリストが十字架にかかられて、私たち人類の罪を贖い、三日目に甦られて罪と死の力を打ち破り、その栄光を現してくださったのです。主イエスを心の王座に迎え、心から主をほめ歌いましょう。

 主よ、私たちはキリストの十字架により贖われた罪人です。それは報酬ではなく、一方的な恵みです。いつも心の王座を主に明け渡し、主の御手にすべてを委ねて御言葉に聴き従い、御業を拝して感謝と賛美をささげさせてください。 アーメン