「しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず、遠い昔に都を形づくられた方を見ようとしなかった。」 イザヤ書22章11節

 1節に、「幻の谷についての託宣」と言われます。この表題は、5節の言葉から採られたものと考えられます。新共同訳は、段落の小見出しを「いやし難いエルサレムの罪」としていますが、それは8節以下の記述から、「幻の谷」が、エルサレムのことを指していると解釈しているわけです。

 エルサレムの町は、シオンと呼ばれる丘の上に建てられています。町の東にケデロンの谷、南にヒンノムの谷、西にチュロペオンの谷と、三つの谷に囲まれています。周囲を山と谷が巡っているので、「シオン(要害)の丘」と呼ばれているわけです。

 それを「幻の谷」と表現するのは、本来、高い山の上にあって真の神を礼拝すべきイスラエルの民が、異教の偶像に迷い、特に、ヒンノムの谷にモレク神を祀る礼拝所があり(列王記下23章10節)、そこでは子どもを火で焼くというおぞましい儀式が執り行われたことから(同16章3節、21章6節など)、その不信仰、不真実を示そうとしているのだろうと思われます。 

 ここに語られているのは、アッシリア軍がエルサレムの都に大挙押し寄せて包囲した紀元前701年の出来事ではないでしょうか。紀元前705年のサルゴン王の死去によってアッシリア帝国内に叛乱が頻発し、それに乗じてユダの王ヒゼキヤは、エジプトやバビロンと結び、朝貢を辞めました。

 そして、都を防護するために軍備を増強(8節)、城壁を強化します。その際、エルサレムの東側城外に湧き出しているギホンの泉を攻め寄せてくる敵から守り、その水を場内で利用するため、地下水道を掘ってシロアムの池まで引き込んだのです(9~11節、歴代誌下32章1節以下、30節)。

 けれども、ユダの町々はアッシリア軍の前にことごとく征服され、最後に18万5千の兵士がエルサレムを取り囲みました(列王記下18章3節)。亡くなった将校や兵士たちは、戦いで命を落としたのではなく、都を逃げ出そうとして捕えられ(2,3節)、見せしめに処刑されたのです。それは、降伏以外に道がないことを、ヒゼキヤ王とエルサレムの住民に思い知らせるためです。

 ヒゼキヤはアッシリアに降伏し、神殿と王宮の宝物庫から賠償の金品を差し出しました(列王下18章14~16節)。センナケリブの年代記には、ヒゼキヤが王女や侍女、男女の歌い手も差し出して、ニネベに送って来たと記されているそうです。それら多額の賠償が差し出されたので、エルサレムの町はなんとか滅亡を免れたわけです。

 そのような犠牲の大きさを考えないで、徒らに喜んでいるように見えるエルサレムの民に対して(1,2節)、「わたしから目をそらしてくれ。わたしは激しく泣く。あえてわたしを慰めるな。娘なるわが民が滅びたのだ」(4節)とイザヤは言います。それは、これからエルサレムを襲うことになる不幸の大きさ、悲しみの深さを教えようとしているのです。

 そして、その災いの原因を考えて神の御前に謙り、悔い改めることを求めているのです(12節)。彼らが本当にしなければならなかったこと、神が彼らに求めておられたのは、冒頭の言葉(11節)のとおり、都を形づくられた方を仰ぎ見、その御手に依り頼むことだったのです(11節)。

 ところが、悔い改めを求められているのに(12節)、神に目を向け、主に信頼することが求められているのに(11節)、エルサレムの住民は、そうしようとはしません(13節)。敵が退却して危機が去ったのを見て、喜び祝っているのです。それで万軍の主は、「お前たちが死ぬまで、この罪は決して赦されることがない」(14節)と宣告されます。

 このことについて、列王記下20章に記されている出来事を思い出します。それは、死の病が奇跡的に回復した後、バビロンからの見舞いの使者を迎えて喜んだヒゼキヤが、宝物庫や武器庫、倉庫に納めてある物をすべて見せたことに対し、預言者イザヤが、それらすべてがバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来ると預言したという出来事です。

 アッシリアから守られたことも、死の病から癒されたことも、すべて神の憐れみであるのに、ヒゼキヤはまるで自分の手柄であるかのように誇り、持ち物を自慢して見せたわけです。そこには、主なる神に対する畏れや感謝を、かけらも見ることが出来ません。

 そのことについて、歴代誌下32章31節に、「バビロンの諸侯が、この地に起こった奇跡について調べさせるため、使節を遣わしたとき、神はヒゼキヤを試み、その心にあることを知り尽くすために、彼を捨て置かれた」と記されています。かくてヒゼキヤの浅慮による振る舞いが、国の滅びを招く結果となってしまいます。

 ヤコブの手紙4章8節以下に、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ書4章8~10節)と記されています。

 だれが、自分自身を清めることが出来るでしょう。手を洗えば、清くなるわけではありません。心を清めるには、どうすればよいのでしょうか。ただ主の贖いの業に与るだけ、その恵みに信頼し、すべてをその御手に委ねるだけです(’第一ペトロ書1章18,19,22節)。 

 キリストの贖いにより、聖なる者とされ、愛されている者として、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせましょう。知恵を尽くして諭し合い、感謝して心から神を褒め称えましょう。そして、何事につけ主イエスの御名によって行い、神に感謝しましょう(コロサイ書3章12節以下、16,17節)。

 主よ、あなたの御心を教えてください。御言葉を行うことができますように。御前に謙り、その御言葉に心から耳を傾けさせてください。聖霊により、知恵と力を授けてください。そうして、私たちの体を通して、あなたのご栄光を表すことが出来ますように。 アーメン