「その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。」 イザヤ書10章20節

 5節以下に、アッシリアを断罪する言葉が記されています。その中に、「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の奢った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる」(12節)という言葉があります。

 神はアッシリアを怒りの鞭、憤りの杖として(5節)、「神を無視する国」、即ち、北イスラエル、シリアに遣わし、「戦利品を取り、略奪品を取れ。野の土のように彼を踏みにじれ」と命じられます(6節)。これは、8章1,3節でイザヤに生まれた男の子の名前に示されていたことです。

 しかるに、アッシリアの王は神の計らいを越えて滅ぼし尽くし、断ち尽くそうと考え(7節)、さらにその手をエルサレムにまで伸ばそうとしていました(11節)。

 確かに、南ユダの王アハズは異教の神々を礼拝していました(列王記下16章3,4,10節以下)。だから主は、北イスラエルを滅ぼされたように、南ユダも侵略者の手に渡して、御前から捨てることにされたのです(同17章19,20節)。

  イザヤが7章17節で「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」と語っていたのも、主なる神がアッシリアの王を用いて、シオンの山・エルサレムを撃つということでした。それが12節の、「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就される」ということでしょう。

 けれども、それを成就されたとき、アッシリアの王の奢った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられると言い(12節)、その理由は、「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った」(13節)と、力と知恵、栄光を盗んで私しようとしていることだと断じています。

 あらためて、主なる神がアッシリアをイスラエルを打つ鞭、杖としたのは、ユダを徹底的に滅ぼし尽くしてしまうようなことではありませんでした。なぜならば、冒頭の言葉(20節)にあるとおり、「イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者」がいると語られているからです。

 「残りの者」や「逃れた者」とは、生き残った者、裁きを免れた者ということで、神はこれを滅ぼし就くされはしない、むしろ、彼らによって新しいイスラエルを築こうとされます。

 この「残りの者」は、「自分たちを撃った敵」つまりアッシリアに頼るのではなく、「イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る」と言われているからです。つまり、主なる神は、イスラエルの聖なる方、主に真実に依り頼む者が、「イスラエルの残りの者」、「ヤコブの家の逃れた者」となると言われているのです。そして、この預言が、ヒゼキヤ王の治世の第14年に成就しました。

 ヒゼキヤは、アハズ王がアッシリアに贈っていた貢ぎ物をやめました。アッシリアに頼るのをやめて、主を堅く信頼することにしたのです(列王記下18章6,7節)。

 それで、アッシリアの王センナケリブが攻め込んで来て、ユダの砦の町をことごとく占領しました(同13節)。ヒゼキヤは慌てて貢ぎ物を贈ります(同14節以下)。けれども、アッシリアは大軍をエルサレムに派遣し、全面降伏を要求します(同17節以下)。

 そのとき、アッシリア王の使者ラブ・シャケが「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」(同35節)と言いました。

 これを聞いたヒゼキヤは、主の神殿に行き(同19章1節)、役人たちを預言者イザヤのもとに遣わして、「生ける神を罵るために、その主君、アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。・・・ここに残っている者のために祈ってほしい」(同4節)と要請します。

 ここに、力ある神のもとに帰って来た、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者がいます。そして主なる神は、「イスラエルの残りの者」なるヒゼキヤの要請に応えられました。一夜のうちに、主の御使いがアッシリア陣営で18万5千の兵士を皆撃ったのです(同35節)。

 一人ニネベに逃げ戻ったセンナケリブ王も、自分の神ニスロクの神殿で礼拝しているときに、暗殺されてしまいました(同37節)。センナケリブが冒涜したイスラエルの神は、イスラエルを彼の手から救いましたが、彼が礼拝している神は、彼を守ってはくれなかったのです。

 ヒゼキヤ王の信仰に倣い、主を信じて御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちに行くべき道を教えてください。あなたの御言葉こそ、私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯火です。私たちはあなたに信頼しています。どんなときにも御心に従って歩むことが出来ますように。 アーメン