「わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」 イザヤ書8章17節

 イザヤは、8章でも繰り返し、神を畏れ、神を信頼するようにと説きます。

 初めに、大きな羊皮紙に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書かせます(1節)。それは「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味だと、新共同訳聖書は括弧書きで説明しています。そして、女預言者の産んだ男の子に、その言葉通りの名前を付けるように言われます。女預言者とは、イザヤの妻のことと考えられます。

 それは、「この子がお父さん、お母さんと言えるようになる前に、(アラムの首都)ダマスコからはその富が、(北イスラエルの首都)サマリアからはその戦利品が、アッシリアの王の前に運び去られる」(4節)という、シリア(アラム)、北イスラエル(エフライム)両国の敗戦による滅亡を、その行動によって預言するものでした。

 次で、「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒み、レツィンとレマルヤの子のゆえにくずおれる」(6節)、「それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲いかからせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とそのすべての栄光を」(7節)と告げます。

 ここで、「シロアの水」とは、ヒゼキヤの掘った水道トンネルのことではなく(列王記下20章20節)、ギホンの泉から町に沿ってゆるやかに流れる開放式水道のことで、エルサレムの町のことをそのように表現しています。一方、「大河の激流」とはチグリス・ユーフラテス川を指し、アッシリアのことを表現したものです。

 これは、アハズ王が主なる神に信頼せず、アッシリアに援軍を依頼してアラム・エフライム連合軍に対抗することにしたことで、かえってその激流を南ユダ王国に呼び込むことになるという預言です。「(激流は)ユダにみなぎり、首に達し、溢れ、押し流す。その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」(8節)というのですから、南ユダ壊滅の危機です。

 しかし、このように語られるのは、神がイスラエルを徹底的に滅ぼしてしまおうとしているということではありません。「神が我ら(イスラエルの家、ユダの民)と共におられる(インマヌエル)」(10節)と言われているからです。つまり、悔い改めて、神に立ち帰ることを求めておられるのです。けれども、イスラエルの民は主に信頼せず、御言葉に聴き従おうとしません。

 主なる神はイザヤに、イスラエルの民と共にその道を行かないように、と戒めを与えます(11節)。恐れるべきは、アラム・イスラエル同盟でも、はたまたアッシリアでもありません。主なる神なのです(13節)。

 主を信じ、主に依り頼む者にとって、主は聖所であり、逃れ場、堅固な岩、砦の塔となられますが、背く者には、躓きの石、妨げの岩となり、仕掛け網、罠ともなられます(14節)。つまり、神の裁きの手に陥り、それから逃れることは出来ないということです。

 イザヤは、預言者として神の言葉を語り続けて来ました。けれども、功を奏しません。それは、6章9,10節で、この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。・・悔い改めていやされることのないために」と言われていたとおりです。

 これからイザヤのすることは、彼の語った預言がどう実現するのか、事態を静観することです。そこで、まず預言の言葉を封印します(16節)。ことが起こった後、確かにそれがイザヤの語った預言の成就であるということを証明するという目的です。そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、イザヤは主を待ち望みます。

 イザヤの心境は複雑でしょう。いかに彼らが自分の預言に耳を傾けないからとはいえ、同胞に神の裁きが降るのを待ち望みたいはずはありません。神の裁きの預言が実現して、同胞が裁かれるのを、いい気味だなどと思えるでしょうか。それは、イザヤの心ではないと思います。

 イザヤが召されたとき、彼は、神の前に罪びとであることを自覚し、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と言いました(6章5節)。神は祭壇の火をもってイザヤを清め、預言者として立てられました(同7節)。

 イザヤが待ち望んでいるのは、自分と同様、イスラエルの家、ユダの民が罪を悔い改め、清められること、救われることでしょう。「主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける」(17節)と語っているところにも、それが言い表されていると思います。

 主なる神の裁きは、救いを排除しているわけではありません。むしろ、裁きは救いを指し示すものです。今、主はヤコブの家に御顔を隠しておられるけれども、裁きを通して必ず御顔の光をイスラエルの民の前に輝かせてくださるとイザヤは期待しているのです。

 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(40章31節)といわれるように、どんなときにも主に望みを置き、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝する信仰で前進させていただきましょう。 

 主よ、イザヤが見ている現実は、決して彼が望んでいるようなありさまではありませんでした。しかし、それで失望してしまうことはありませんでした。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じたのです。私たちも、絶えず主を待ち望み、固く主に信頼することが出来ますように。 アーメン