「見よ、主なる万軍の神は、支えとなり、頼みとなる者を、また、パンによる支え、水による支えをも、エルサレムとユダから取り去られる。」 イザヤ書3章1節

 預言者イザヤは冒頭の言葉(1節)から、ユダとエルサレムの滅亡を語り始めています。ここで、「支えとなり(マシュエイン)、頼みとなる者(マシュエイナー)」というのは、「支える」(シャーアン)という言葉の名詞の男性形と女性形です。同じ言葉を重ねてその意味を強調しているわけです。

 ここに、「者」という言葉は、原文にはありません。「エルサレムとユダから取り去られる」ものとして、2節以下に列挙されているのを見ると、それは人であることがは明らかなので、「頼みとなる者」と意訳されているのでしょう。しかし、直後に「パンによる支え、水による支え」が続いているので、「頼みとなるもの」とされるべきではないかと思います。

 「パンによる支え、水による支え」は、まさに生命線です。それが取り去られれば、だれも生きることが出来ません。これは、旱魃や熱波などによる飢饉に見舞われるということが考えられているのでしょうか。

 エルサレムとユダが支えとし、頼みとしていたものについて、2節でまず、「勇士と戦士」が挙げられており、軍事力あるいは軍事的な指導者を頼みとしていることが分かります。

 続いて、「裁きを行う者と預言者」を挙げて、法的、宗教的指導者を頼みとしていることが分かります。

 そして、「占い師と長老」を挙げて、占いや呪いにより、あるいはまた長い人生経験をもとに助言、指導を与える指導者を頼りとしていることが示されます。3節は、2節を別の言葉で繰り返しています。

 そのような指導者たちが取り去られた後には、もはや国を治める力のある者はいません。あるのは、無秩序に荒廃した社会です。指導者がいないので、国の道徳、秩序は乱れてしまいます(5節)。そして、指導者を立てようとしても、それに相応しい者がいません。

 6節の、「お前にはまだ上着がある。我らの指導者になり、この破滅の始末をしてくれ」というのは、そんな理由でもつけなければ人が立てられないということであり、また、人々は大変困窮した生活をしているということでしょう。

 イザヤがこの預言を語ったのは、南ユダ王国がバビロンに滅ぼされる100年以上も前のことです。当時は、アッシリアの脅威を退け、平和と繁栄を謳歌していました。ですから、これを聞いたエルサレムの人々は、驚いたことでしょう。あるいは、イザヤを嘲笑したかもしれません。それが、「彼らは舌と行いをもって主に敵対し、その栄光のまなざしに逆らった」(8節)という言葉からも窺えます。

 そもそも、申命記18章10~12節に、「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、ト者、易者、呪術師、呪文を唱えるもの、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行うものをすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう」と命じられていました。

 それにも拘らず、ユダとエルサレムの人々が頼りとする者に、「占い師」(2節)、「魔術師、呪術師」(3節)が挙げられているということは、彼らがそのような異教の習慣に惑わされて、真の神を頼りとしていないということを明示しています。

 「溺れる者は藁をもつかむ」と言いますが、藁をつかんでも、何の助けにもなりません。イザヤは、ユダとエルサレムの人々が支えとし、頼みとしているものは、いつかは取り去られてしまう、実際には頼りにならない藁のようなものだと宣告しているわけです。

 そして、「しかし言え、主に従う人は幸い、と。彼らは自分の行いの実を食べることができる」(10節)と言います。真に頼みとならないものなら、取り去られてしまった方が良いでしょう。そして私たちは、真の助けをお与えくださる主に聴き従うのです。

 主の御言葉に素直に耳を傾けましょう。主の御心がどこにあるのか、祈り心で黙想しましょう。御言葉に示される教え、戒めを心に留め、誤りを正し、義に導く主の御言葉に聴き従いましょう。  

 主よ、私たちは天地の造り主であられるあなたを、おのが避けどころとします。朝ごとに私たちの声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。恵みの御業の内に私たちを導き、まっすぐにあなたの道に歩ませてください。御言葉を聞く耳を開いてください。御旨を悟り、喜んで聴き従うことが出来ますように。御名を崇めさせてください。 アーメン